続きです。







フレンに腕を掴まれたまま、ユーリは動く事ができない。自分を見上げてくる蒼い瞳は恐ろしくなるほど真剣で、それでいて堪らなく不安げに揺れている。
泣きそうな顔にも見えるその表情に、何故か熱いものが見え隠れしている気がしてならない。

だが、それが何なのかを知るのが怖かった。

掴まれた腕には徐々に力が込められ、痛い程だ。


「……離せよ」


掠れた声に自分自身で驚いたが、フレンが腕を離す気配はない。それどころかますます強くなる力と視線にユーリはとうとう耐えられなくなった。


「離せ!!!」


しかしフレンの取った行動はユーリの叫びとは全く逆だった。
左手首も掴んで思い切り引っ張ると、ユーリの身体がよろけながらフレンへと倒れ込む。腕を取られている為に受け身を取る事ができなかったユーリが顔をフレンの肩に打ちつけ、小さな呻き声を上げた。

更にもう一度、今度は声にならない悲鳴を上げる。

「っ……!!」

顔を上げた先には、今までの記憶にない程の至近距離で二つの空色がユーリを見下ろしていた。


ユーリは腕を取られた形のまま、ベッドに腰掛けたフレンにまるで引っ張り上げられるような不自然な体勢だ。床に突いた膝が濡れる感触があったが、そんな事よりもとにかくこの体勢をどうにかしたい。

息がかかる程の近さに躊躇しながらももう一度離すように言おうとしたユーリだったが、先にフレンが口を開いたためにそれは叶わなかった。


「……ユーリは、もう…この先、男に戻れなくてもいいんだ?」

「は…、いや、戻れるならそのほうが」

「でも、リタにはもういいって言ったんだろう?」

「わざわざ別個で研究……っっ、近い近い!!何なんだよ!?」

フレンがぐっと身を乗り出したので、思わずユーリは身体を逸らす。まるで下手くそなダンスを踊っているかのような姿勢に、腰が痛む。痛いのは、姿勢のせいだけではなかったが。

ユーリの苦しそうな様子に漸く気付いたのか、フレンの力が少し緩む。が、腕は解放されず、そのまま降ろされて身体ごと、一層力強く抱き締めた。
膝立ちのまま上からフレンの重さが加わり、ますます身体に負担が掛かる。状況は全く好転していない。

それどころかフレンはユーリの肩に顔を擦り寄せるようにしてきた為、ユーリの身体は強張るばかりだった。

「別個で研究が、何?」

「そ…そこで喋るな!い、息が、かかっ…!!」

「答えてくれるまで離さない」

「おまえな……!!」

フレンを振り返ろうとしても、見えるのはふわふわとした金髪だけだ。
どんなにユーリが身体を捩ってもフレンの腕からは抜け出す事が出来ず、それどころか本当に離すまいとするようにフレンの腕がぎゅっと締まる。

「あぅ……!!」

今度こそ本当にユーリが悲鳴をあげると、顎の下でフレンの肩がびくりと震えた。

「…ユーリ…」

「く、苦し…っ!マジ離せってば!!」

「……………」

「この…!答えりゃいいんだろ!?別個で研究しなくてもいいが、何かのついでに方法が見つかったら教えろ、ぐらいは言ったよ!」

「…それって、ほとんど期待してないって事だよね」

「だからそう言ってるだろ!もういいんだって!なんでおまえがそんなに怒るんだよ!?」

「怒る……?怒ってなんかいないよ」

一連の乱暴とも言える振る舞いを、どうやらユーリはフレンが怒っているものだと思っているらしい。
勿論、フレンは怒ってなどいない。振る舞いの原因は、別の感情によるものだった。


「オレが元に戻るのを諦めて、腹を立ててんじゃないのか…?」

「…ごめんユーリ、全然違う。むしろ僕は、ユーリがずっとこのままだったらいいと思ってる…」

ユーリの身体が震え、息を呑むのが肩越しに伝わった。


「……聞こえてた?」


何が、とは怖くて聞き返せなかった。

やはり聞かれていたのだ、とフレンは思う。返事が返って来ない事が、肯定しているようなものだった。
だがあえてそこには触れず、淡々とフレンは話し続けた。

「ユーリが女の子で、子供も作ることが出来て…それが誰の子供なんだろう、って考えたら、何だかとても不安になった」

「な、何言ってんのおまえ…」

「いつか誰かを好きになって、それで誰かの子供を」

「何言ってんだ、いい加減にしろ!!何の心配だよ!?訳分からな……」

「嫌なんだ!!そんなの、絶対嫌だ……!!」

身体を締め付ける力は強さを増し、決して万全とは言い難いユーリを気遣う様子はまるで見られない。
切羽詰まった叫びと同時に離れたフレンの顔は再び触れそうなほど近かったが、ユーリは身じろぎ一つ出来なかった。

いつの間にか腕を掴む手は離れ、掌全てで覆い尽くすかのように背中を抱いている。布越しに伝わる熱は、そのままフレンの激情を顕しているかのように感じられた。


「僕にとって、ユーリは大切な存在なんだ」

「ふ、フレン?」


「……………、…だ」


僅かに聞こえた、絞り出すかのようなフレンの言葉にユーリが目を見張る。
それはユーリにとって、今、最も聞きたくない言葉だったかもしれない。

だから、否定する事しかできなかった。


「い……嫌だ、聞きたく、ない…!」

「ユーリ、どうして…!」

「嫌だ…、離せ、離してくれ、頼むから」

「ユーリ!!」

もう一度、今度ははっきりと耳に届いたその言葉に、ユーリは世界がぐらりと歪んだような錯覚に陥った。


「君のことが、好きだ」




限界だ、と思った。






開け放たれた扉の向こうから、騒がしい足音が聞こえる。先程遠ざかって行ったものとは違う足音に顔を上げたフレンの目の前には、自分とユーリにとても懐いている少年の姿があった。

「フレン、さっきユーリが…!!」

「…テッド」

「ど、どうしたの?またケンカしたの…?」

フレンの様子に、テッドも戸惑っているようだ。


ベッドに腰掛けたフレンは右頬を押さえ、力無く笑っている。良く見れば右肩の布地も荒れ、切れているようだった。

「ホントにどうしたの?フレン、大丈夫?」

「…大丈夫。僕は大丈夫だ。それより、ユーリは?」

「あ、そうだった!もうユーリ、どうしちゃったの?僕、思いっきりお尻打っちゃったんだよ!」


目の前で騒ぐテッドの声も、どこか遠く感じられた。
扉から、窓へと視線を移す。
既に陽は傾きかけている。暗くなる前に追い掛けるべきだと思ったが、身体を動かすことができなかった。






部屋を飛び出し、転がり落ちるように階段を駆け下りた。何かにぶつかったような気もしたが、構っている余裕などない。

広場を全力で駆け抜け、市民街へと続く坂を一気に上りきったところで目の前が真っ白になった。
比喩的表現ではなく、本物の貧血だ。
もともと体調不良で伏せっていたのに急に走った為に貧血を起こし、ふらつく身体を引きずって何とかベンチに辿り着いた。

隣に座る男女が、何事かといった視線をユーリに向ける。
だが、ベンチの背もたれに頭を投げ出し、蒼白な顔に脂汗を浮かべるユーリを見ると彼らはそそくさとその場を去って行った。


(あー……くそっ……)


天を仰ぎ、両腕で顔を覆う。少し吐き気もした。
先程の出来事を考えて悪態をつかずにはいられなかった。



フレンの様子がおかしいのは分かっていた。

だがつい先日、ハルルに向かう前に会った時はそうでもなかったように思う。
フレンが自分を『女性』として意識しているのにはうっすらと気付いていたが、それ以上の…平たく言うと『恋愛対象』としては見ていないと思いたかった。

フレンもそれを否定した筈ではなかったか。
だが、冷静に思い返してみるとどうだっただろうか。

(…いや、あいつは違うともそうだとも言ってない)

友人として、ユーリが傷付く姿を見たくないとは言っていた。
それを聞いたユーリは、酒場で絡んで来た男達のような邪な目でフレンが自分を見てはいないと思ったのだ。
しかしそれは、フレン自身がユーリをどう思っているのか、という事とは別だった。


「……友人じゃ、なかったのかよ……」


顔を覆っていた両手を投げ出し、ゆっくり目を開けると既に辺りは黄昏も終わろうかという様子だった。
暮れていく空をぼんやり眺めながらユーリは考える。

どう考えても、先日会った時から今日までの間に何かあったとしか思えない。だがその『何か』については全く想像ができなかった。

呼吸は落ち着きを取り戻し、脂汗も引いて吐き気も治まった。だが下腹部はキリキリと痛むし、生理痛は悪化したような気がする。

勢いで飛び出して来てしまったが、一体どんな顔をして戻れと言うのか。
怒りのぶつけどころがなくてうなだれていると、視線の先に影が落ちた。


フレンが追い掛けて来たのか、それにしては遅かったな、などと思いながら顔を上げたユーリだったが、そこに立っていたのは思っていたのとは違う人物だった。


「何やってんの青ね…っと、ユーリ、こんなとこで」

「……おっさん」



飄々とした笑みも見慣れたその男の姿に、ユーリはどこか安堵しながらも言いようのない複雑な気分を味わっていた。






「……はあ。あのフレンちゃんに襲われるなんてねえ…」

「…ヤな言い方してんじゃねぇよ……」

「似たようなもんでしょうが。よく逃げられたもんだわ」


市民街の片隅にある宿の食堂で、ユーリはレイヴンと食事を取っていた。普段あまりこの辺りの店で飲食する事はない。
だが下町の部屋には戻りづらいし、レイヴンの連れとして出入りできるにしても城には行きたくない。
だからといっていつまでベンチに座っていても仕方ないという事で、レイヴンに連れて来られたのだった。

フレンが自分を捜し回っているかもしれない、という考えは、頭の隅っこに放り投げていた。


「でもどうすんの?これから」

「……そんなの知るかよ」


むすっとしてジュースのグラスを握り締める姿はなんとも可愛らしいものだったが、そんな事を言えば自分もフレンの二の舞になることは分かりきっていたので、レイヴンは口をつぐむしかない。
むしろフレンよりも容赦なく叩きのめされる可能性は高かった。


「…まあとりあえず、帰りたくなきゃ今日はここに泊まれば?」

「金なんか持って来てねえけど」

「食事してる時点で分かってんでしょ!ちゃんと俺様が出しといてあげるって」

「……………」

「…で、どうする?」

もう一度聞かれて、ユーリの出した結論にレイヴンも頷いた。


「ダングレストに行く。暫くこっちには戻らない」


「…ま、今はそれしかないかもね」

「そういやおっさんは何であそこにいたんだ?」

「俺?普通に飯食いに出ただけよ。城の中ばかりだと息が詰まるしね」

「…ふうん」

「で、そのままここに泊まって俺様も明日はダングレストに行く予定なんだけども」

「何だって?」

「あ、勿論部屋は別々よ?フレンちゃんと違って、おっさんまだ死にたくないし」

「…あいつも死んじゃいねえよ」


逃れるのに必死だったので手加減はしていない。歯の一本ぐらいは折れてるかもな、とユーリが言うとレイヴンが引き攣った笑いを浮かべた。



結局、体調の優れないユーリはレイヴンを残して宿の部屋へと早々に引き上げ、シャワーも浴びずに ベッドに身体を投げ出した。

肉体的にも、精神的にも疲労している。眠気はあっという間に襲って来た。


どちらにしても、一度下町の部屋には戻らなくてはならない。まさかフレンがいる事はないだろうと思いつつも、酷く憂鬱な気分のままユーリは瞳を閉じたのだった。




ーーーーー
続く