フレンがユーリと出逢ったのは、今から十日ほど前だった。



先帝が崩御してから数日、国民には服喪令が発せられていた。バザールは一週間の開催自粛となり、多くの店が臨時休業の看板と半旗を掲げていた。

その日も仕事のなかったフレンは何か下町で出来ることはないかと思い、ハンクスの元へ向かっていた。
この辺りの自治を任されているハンクスは、早くに両親を亡くしたフレンにとっては育ての親とも言うべき存在だった。優しくも厳しく自分に接してくれるハンクスの事がフレンは大好きで、こうして一人で暮らすようになっても毎日彼の元を訪れ、時に彼の手伝いをするようにしていた。


そもそも、今フレンが一人で住んでいる家もハンクスが世話をしてくれたものだった。
自分の存在が負担になっているのではないかと考え始めたフレンに、ハンクスは子供がそんなことを気にするな、と言った。だが、気にするなと言われれば益々気に病む性質であるフレンに、ハンクスは驚くべき提案をした。
下町の一角に、古い家がある。居間と寝室だけの小さな家で、もう十年以上空き家になっているその家を、好きに使っていい。ただし、毎日必ず自分に顔を見せに来ること――――

まだやっと十一になったばかりのフレンに一人暮らしをさせることを心配する大人達も少なくなかったが、なによりもフレンがこの提案に大いに乗り気だった。

こうしてフレンはその家に住むようになり、約束通り毎日ハンクスの元へ通っている。
仕事があればそのまま彼の家を後にするが、今日もそのような予定はなかった。顔見せついでに何か手伝えそうなことでもあればと思っていたのだが、噴水広場が見えて来たあたりから、何やら周囲が騒がしいのに気が付いた。

数名の大人達が不安げに眉を寄せ、落ち着かない様子で話をしている。
何かあったのだろうか。
そう思って辺りを見回すと、見慣れない女性と共にいるハンクスの姿を見付けた。ハンクスは目の前の女性を落ち着かせるかのように優しく肩を叩き、何か話し掛けている。フレンはハンクスの元に駆け寄ると、何があったのかを尋ねていた。


「おお、フレンか」

フレンの姿に老人は笑みを浮かべたが、すぐに困ったように息を吐いて女性の顔を見た。つられてフレンもその女性を見上げる。
見た事のない女性だった。
美しい黒髪のその女性は、胸の前で両手をしっかりと握り締めている。よく見ると、その手は小刻みに震えていた。


「あの…どうしたんですか?」

「ん?おお、この人は昨日、下町に越して来たんじゃ。といっても、昔住んでおったから戻って来た、と言ったほうがいいかの」

「そうなんですか。あの、僕はフレンと言います。よろしくお願いします」

律儀に挨拶をしたフレンを女性はちらりと見ると、ぎこちない笑みを浮かべた。どうやら泣いていたようで、フレンもそれ以上何も言えなくなってしまった。

「…えっと、あの…」

「実はの…こちらの息子さんの姿が見当たらんのじゃよ」

「息子さん?」

「うむ。…そうじゃの、確かおまえさんと同い年じゃったか」

この親子は、昨晩遅くに下町へと越して来たらしい。それが、朝になったら子供の姿が見えない。今まで探していたのだが、未だ見付けられずにいるという事だった。

「少しばかり人見知りのきらいがあるようじゃからのう、あちこち逃げ回っとるのかもしれん」

「ハンクスさん、僕もその子を捜すの、手伝います」

ハンクスはフレンを見ると顎に手をやって暫し考え、それからひとつ頷いて言った。

「…そうじゃの。年の近いおまえさんなら、向こうもあるいは…」

ハンクスから子供の名前と特徴を聞き、フレンは考えつく限りの心当たりを捜すことにしたのだった。


それからフレンは、下町中を走り回って子供の姿を捜した。
隠れんぼをした路地裏や、空き家の中。
危ないから近付くな、と言われていた川岸の辺りも念入りに捜した。そんな所で見付けたくはなかったが、大人の目線では分からない事もあるかもしれない、と思ったからだ。幸いにして子供の姿も、川に落ちたような形跡もなかった。

隠れることが出来そうな場所はあらかた捜したつもりだったが、子供は見つからない。朝早くに家を出たのに、気が付けば既に太陽は中天に差し掛かっていた。



「…お腹すいたな」

朝食に少しばかりのパンをミルクで流し込んだだけで走り回ったため、フレンはいつもより強い空腹感を感じて立ち止まった。
一度、家に帰って食事をしようか。
そう思ったが、まだ見つからない子供の事を考えるとそういうわけにはいかない、とも思う。

(でも…、その子も何も食べてないんじゃないのかな)

ふと、そんな事を考えた。昨晩遅くにやって来て、朝にはいなくなっていたのだ。少なくとも、朝から何も食べてはいない筈だ。

何故、姿を隠しているのかは分からない。だが、空腹は余計に人を不安にさせる。人見知りで、頼る相手が誰もいないなら尚更なのではないか。
それなのに、母親の元を抜け出してまで何がしたかったのだろう。どこか行きたい場所でもあったのだろうか。
考え出したら止まらなくなって、フレンはまだ見たこともないその子供の事が気になって仕方がなくなっていた。捜して見つけ出す、というより、会いたい、と思う。会って、色々と聞いてみたい。
それなら、少しでも早く打ち解けるにはどうすればいいだろう。
そうするとやはり、何か食べる物を用意したほうが良いように思われた。自分が空腹だったからかもしれないが、他に話し掛けるきっかけが思い付かなかった。
一度思い込んだらもう、それが最善の方法としか考えられなくて、フレンは急いで家に帰る事にした。



自宅に戻ったフレンはパンを一つ持って、再び子供を捜すために家を出た。

「うわっっ!?」

扉を締めて振り返った足元に何かが触れ、思わず声を上げてしまう。
声に驚いたのか、『何か』が勢い良く離れていく。見ると、それは黒い毛並みの子猫だった。
長い尻尾を揺らし、翠色の瞳がじっとフレンを見つめている。フレンが一歩踏み出すと、子猫は背を向けて逃げて行ってしまった。

黒く艶やかな毛並みが、泣いていたあの女の人の髪の毛みたいだ、と思った。
子供も同じ黒髪だと聞いている。何か不思議なものを感じつつも敷地の外に出たフレンは、そこでまた足を止めた。

先程の子猫が、道の真ん中に座ってこちらをじっと見ていたのだ。

子猫はフレンが姿を現すと、再び背を向けて逃げる。しかし、少し走ると立ち止まり、振り返ってまたフレンを見る。

「…僕に、何か教えたいの…?」

何故かそんな気がして、フレンは子猫を追いかけていた。






「ま、待って……!!」

いつの間にか全力で逃げる子猫を追って辿り着いたのは、フレンの家がある辺りからさらに街外れの空き地だった。
昔は家屋が何軒かあったらしいその辺りには、今は家の基礎と崩れた瓦礫しかない。
雑草が生い茂るその空き地に、一本の楡の木が生えている。もっと幼かった頃、フレンもその木に登って遊んだ記憶があった。

全力で走ったために今だ乱れた呼吸のまま、辺りを見回してみるが、子猫の姿は見当たらない。


「ねえ、どこにいるの!!」

大声で呼んでみる。すると、楡の木のほうから微かな鳴き声が聞こえた気がした。
木の下まで歩いて行くと、上に向かいもう一度声を掛ける。

「そこにいるの?」

今度は鳴き声はしなかった。その代わり、葉陰に何か黒いものが揺れる。真昼の太陽が逆光になって良く見えず、額に手を翳して目を細めたその時、再び子猫の鳴き声がした。

「やっぱり、そこにいるんだね。…おいで?」

手に持っていたパンを置き、両手を木の上に向かって伸ばす。
がさり、と葉擦れの音がした。

「どうしたの?…もしかして、降りられなくなっちゃったのかな」

背の高い木ではない。それでも一番低い枝は、フレンの伸ばした手の少し先にある。相変わらず逆光で眩しいその先に、フレンは声を掛け続けた。

「大丈夫、君ぐらいなら受け止めてあげるから。だから、こっちにおいで?」

黒い影が揺れ、先程よりも葉擦れが騒がしくなる。飛び下りるかどうか迷っているように感じて、フレンは目一杯背伸びをし、両手を更に大きく広げ、木の上の影に向かって笑いかけた。

「僕がちゃんと、受け止める!だから心配しないで、降りておいで!!」


一瞬の静寂の後、葉陰から姿を現した『影』が勢い良くフレンに向かって飛び付いて来て、その予想外の質量を支えきれずにフレンは『影』を抱き締めたまま、思いきり後ろにひっくり返っていた。



「い…ったあー…」

背中やら尻餅をついたあたりやらを強く地面で打ってしまい、痛くて涙が出そうになる。衝撃で強く閉じてしまったままの瞼をそろそろと開けて、目に映ったものに更に強い衝撃を受けた。
驚きのあまり、声も出ない。

フレンが胸に抱いていたのは、子猫ではなかった。






自分と同じぐらいの年頃の子供が、顔だけを上げてじっとこちらを見つめている。
肩の辺りまである艶やかな黒髪が微かな風に揺れて顔にかかるのを、フレンはただ息を詰めて見ていた。

透き通るように白いその顔に、形の良い鼻がちょこんと乗っている。きゅっと結ばれた薄い唇を見た瞬間に何故か胸が苦しくなって、慌てて視線を上げた先にある瞳と視線がかち合った。

子猫とは違う、薄紫色をした、意志の強そうな瞳。 少し吊り気味の目はやはり猫を思わせたが、腕の中の存在は確かに人間だった。


猫が、人に?


そんな有り得ない事まで考えて、身じろぎ一つできないままじっと見つめるフレンの視線に耐えられなくなったのか、その子供が恐る恐ると言った感じで口を開き、漸くフレンは我に返ったのだった。



「…なあ、大丈夫か?」

「…え、う、うん」

「大丈夫だって言うから飛び降りたんだけど…」

「あ、いや、まさか人だとは思わなくて…」

「はあ?…どういうこと?」

その時、子猫が木から飛び降りて来た。
フレンの頬をひと舐めし、背を向けて去っていく。

「…あの子猫だと思って…」

小さく呟かれたフレンの言葉に、黒髪の子供の瞳が大きく見開かれる。と、次の瞬間には声を上げて笑い出したので、フレンは急に恥ずかしくなって思わず声を荒げてしまった。

「わ、笑うな!!」

「だっておまえ、猫が人に、とか……あ、あるわけないだろ!はは、あははは!」

「も、もう…!」

あまりの恥ずかしさに耐えられなくなり、胸の上の存在の肩を掴んで引き離す。起き上がって横に座り、落ち着いてその子供を見てみると、フレンはやっとある事を思い出した。

ハンクスから聞いていた特徴と、同じだ。


「ねえ…君、もしかして、ユーリ…?」

「…え?」

笑い続けていた子供が、きょとんとした様子でフレンに聞き返した。

「確かに、オレの名前はユーリだけど……。なんで知ってんの?…おまえ、誰?」

「僕?僕はフレン。フレン・シーフォ。良かった、ずっと君を捜してたんだよ…!!」

「え!?ちょっ、ちょっと!!」


良かった、と繰り返すフレンに再び抱き締められて、ユーリは訳が分からずにその腕の中で固まるばかりだった。




ーーーーー
続く