下町の広場に歓声が響く。

水道魔導器が使えなくなって以来止まったままだった噴水から、再び水が溢れ出したからだった。

ただ、既に『噴水』ではない。魔核があった場所に井戸を掘ったのだ。ユーリが先頭に立って指揮を執り、下町の住民が一丸となって、ろくな道具もない中での作業が漸く実を結んだ。
みな泥だらけになりながら、それでも広場は笑顔で溢れていた。



「やったなユーリ!」

「ああ…ったく、結構な手間だったぜ。あーあ、泥まみれだよ」

顔に付いた泥を手の甲で乱雑に拭いながら悪態をつく。泥は拭われるどころか、余計に面積を広げてユーリの顔を一層汚してしまった。

「はは、おまえ、女になっても変わらないなあ」

「ほんとほんと、全く、美人が台無しだぞ?」

「美人とか言ってんじゃねえよ…」


身体が女性になったからと言って、これまで生きてきて染み付いた振る舞いが変わるものでもない。
相変わらず口は悪いし、素っ気ない態度もそのままだ。
変わったとすれば、周囲の…特にごく一部の人物、のほうだった。



「ユーリっっ!?」


聞き慣れた声に振り返ると、そこには市民街へと続く坂の途中、呆然とこちらを見たまま突っ立っている幼馴染みの姿。


「ようフレン、どうし…」

ユーリが言い終わるより早く、猛然とダッシュして来たフレンがマントを引きちぎるようにして外し、ユーリの身体に巻き付ける。
ユーリは広場の地面に後ろ手をついて座り込んでいたのだが、その上半身はあっという間にマントでぐるぐる巻きにされてしまった。
ユーリ本人のみならず、周囲で共に談笑していた若者達も、呆気に取られた様子でフレンの所業をただただ見守っていた。


「…何やってんだおまえ…」

突拍子もない行動に、不覚にもされるがままだったユーリが口を開く。
訳が分からない、といった様子で見上げてくるユーリに、フレンは片膝をついて屈み込むと、両手を伸ばしてその細い身体を抱き上げた。

「うぉわ!?っちょ、何しやがる!!」

俗に言う『お姫様抱っこ』というやつだ。
足をじたばたさせて暴れまくるユーリの様子など全く構うことなく、フレンはそのまますたすたと歩き出した。
周囲の視線が集中し、ユーリの顔が耳まで赤くなる。

「おいフレン、降ろせって!!どこ連れてく気だ!?」

「どこって、君の部屋だけど」

「へ?いやオレまだ片付けとか……ちょっと、聞けよ!!」

「そんなの彼らに任せておけばいいよ。ユーリは先にこっち」

「そんなの、って……こっちってどっちだよ!?だから降ろせってば……!!」


フレンに抱えられたまま喚き散らすユーリの姿を見送って、若者達は溜め息を吐き、またある者は肩を竦めた。

「…気持ちは分からないでもないけどなあ…」

「気にしすぎだよな、あれはさ」

「気にしすぎ、ってか気になって仕方ないんだろ」

「わかりやすいよなあ…」

やれやれ、といった様子で後片付けを始める若者達が、ユーリとフレンをどう見ているのかなど、当の本人達は知る由もなかった。









結局、箒星までの短い道すがらもさんざん視線を浴びまくり、部屋に着いて漸く解放されたユーリがまず行った事、それはフレンに対する鉄拳制裁だった。
一発では到底足りない。
二発、三発と殴り掛かるその拳から逃げ回るフレンを、ユーリが怒鳴り付ける。

「てめぇこの、避けんじゃねえ!!」

「普通避けるだろ!?何でそんなに怒ってるんだ!」

「何でだと!?姫抱きで運ぶとか恥かかせやがって、そっちこそ何でこんな真似したんだよ!!」

「なん……う、うわあああ!!」

突如、叫び声を上げながら後ずさるフレンの姿に、振り上げた拳もそのまま、ユーリは動きを止めた。
顔を赤くして必死で顔を背ける様子に、ふと自分の姿を確認する。フレンの反応から想像できる原因など、一つしかない。

巻き付けられたマントは中途半端に緩み、辛うじて腕に引っ掛かったまま今にも滑り落ちそうだ。
噴き上がった水をかぶって濡れた髪や上着が肌に張り付き、あちこち泥で汚れている。
その上着は以前のように大きく前が開かれ、今しがた暴れたために胸はほぼまる見え状態だった。
作業するのに苦しいので前を開けていたのではあるが。

「…おまえ、どこ見てんだよ」

「どど、どこ、って、仕方ないだろ見えてしまったものは!!またそんな、前を開けたりしてるから…!!」

「苦しいんだからしょうがねえだろ」

「…とにかくそのままじゃ風邪を引く。早くシャワーを浴びて来てくれ!!」

そのために連れて来たんだから、と言われ、ユーリはこの幼馴染みの行動に心底呆れ果てていた。

びしょ濡れになって汚れたのは、何も自分だけではない。それにこの陽気ならばすぐに乾くだろう。以前の…男の時分であれば、その場で注意こそすれど、あのような手段で無理矢理連れ帰るような事まではしなかった筈だ。
服装がはしたないとか言われても、同じ程度かそれ以上に露出の激しい格好の女性だっているではないか。カウフマンとか、ジュディスとか。
自分を心配してくれているのは分かる。原因は自分にあるという事も。


二十年以上の月日を男性として生きて来た自分が女性になるなど、想像した事もなかった。だがその変化はあまりにも唐突に訪れ、ユーリはパニックに陥った。
心配そうな様子の仲間達の前では、何とか耐えた。
しかし自分の部屋に戻って気が抜けた途端、言い知れぬ不安に襲われたユーリは激しく取り乱し、自分を部屋まで連れて来てくれたフレンに当たり散らしたのだった。
泣き叫ぶユーリを優しく抱き締め、落ち着くまでずっと背中をさすってくれた掌の温もりは、今も忘れていない。あの場にいたのがフレンで良かったと、心から思っていた。

落ち着いてから冷静に考えてみると、相当に恥ずかしい状況であった。ほんの数日前まで男だった相手を、フレンは何故あのように抱き締める事が出来たのか。同じ事をフレンにしてやれるかと聞かれたら、即答する自信はユーリにはなかった。勿論、放っておいたりなどしない。ずっと傍にいてやるとは思うのだが。


あの日から、ユーリに対するフレンの態度は変わったように思う。いや、確実に変わった。
だが、その心配の度が過ぎているような気がするから、ありがたいとか申し訳ないとかの前に呆れてしまうのだ。風邪を引くのを心配したからといって、その相手を抱いて自宅まで送るなどという行為は、果たして一般的と言えるのかどうか。

あれから既にひと月が経とうとしている。身体が元に戻る気配もなく、ユーリは半ば諦めていた。特に不調があるという訳でもないから、あまり過剰に心配されると逆に疲れてしまう。

顔を背けたまま固まっているフレンに向けて小さく息を吐くと、ユーリはタオルを手にバスルームへと足を向けた。




シャワーの音を聞きながら、フレンはのろのろとその場に蹲る。
膝を抱え、頭を埋めて小さくなる姿からは、とても彼が騎士団のトップである事など想像できないだろう。


だって、ユーリがあまりにも変わらな過ぎて困るのだ。

あの日、ユーリはユーリだ、と言って慰めたのは自分だ。その想いは勿論、変わらない。
だけど今のユーリは美しい女性で、それなのに中身は男性であった時のままで、見ていて非常に危うい。
自分達の事を良く知る人達ばかりの下町ならば、まだいいのかもしれない。今日、部屋に着いた時もまた、扉に鍵は掛かっていなかった。それは信頼の証かもしれないし、単にその辺りに頓着しないだけなのかもしれない。

でも、もし、何かあったら。

そう考えたら不安で仕方がない。
無防備な姿を晒すなと、いくら言ってもすぐにこの始末だ。ユーリが気をつけてくれないのなら、自分が気をつけるしかないじゃないか。
どうしたら分かってもらえるんだろう、と考えていたら、ふとある方法が頭に浮かんだ。
しかし次の瞬間、その考えを打ち消すようにフレンは勢い良く立ち上がると、ぶんぶんと頭を振った。

有り得ない。

ユーリが女性になったからといって、そんな事を考えるなんて。
…現金だな、と言われたあの夜、確かに自分はそれを否定しなかった。

だからと言って、発想が飛躍しすぎだ。
大体、ユーリは今でも男性に戻りたいと思っている筈で、自分もそれを望んでいるのではなかったか。

もし、戻れなかったら。
その時は、自分が―――

(そうすれば、ずっと守ってあげられる…?)

思わずその“光景”まで想像、いや妄想した自分自身に耐えられなくなり、一旦頭を冷やそう、とフレンは部屋の外へ出た。




数分後、部屋に戻ったフレンは、上半身裸で髪を拭くユーリを目の当たりにして、またしても情けない叫び声を上げる事となり、ユーリもまた、堪らなくいたたまれない気分になるのだった。



「気にしなさ過ぎてこっちが恥ずかしいよ……!!」

「気にされ過ぎて恥ずかしくなるだろ……!?」



互いに同じくらい顔を赤くして、しかし会話はどこまでも平行線を辿るだけだった。





ーーーーー
続く