結希※BL表現あり

「…………お、」



携帯片手にソファでくつろぎながらネットサーフィンをしていると、ブブっと軽い振動と共に着信を告げる通知が画面上に出た。表示された名前に思わずガバっと身体を起こす。

雲雀恭弥

「珍しいな」

いつもは自分からメールすることが殆どで、返信以外で恭弥からメールが来ることは殆どない。かつて並盛中を統べていた風紀の王は、今は日本を拠点に各国を行き来する生活をしている。海人くん程ではないが、並盛で過ごす時間は以前より少ないらしい。なんの仕事をしているのかは謎だが、偶に会うと満足そうな顔をしているので充実した日々を過ごしているのだろう。

恭弥とは小学生からの出会いだが、大人になった今も細々と交流は続いていた。偶にメールしたり、電話したり。直接会うのは年に数回の時もあれば、家に泊まりに行くこともある。俺は友人だと思っているが、彼奴はどうだろうな。そもそも友人という定義が恭弥の中にあるかどうか怪しい所だ。はっきりと言葉にするのは難しい関係だが、それでも途切れることなくここまで続いていることが答えの1つではないだろうか。

通知画面をタッチすれば、短い文面のメールが来ている。【明日、11時並盛駅前】なんて、飾り気も無ければ詳しい説明もない。恭弥からだと分かっていなければ、新手の詐欺か果たし状かと思うほどだ。相変わらず淡白なメッセージだと思わずクスリと笑った。

「……了解、っと」

直ぐに返信のボタンを押して、メール画面を操作する。今はメールよりも簡単な通話アプリが主流になり、メール自体あまりすることはなくなった。仕事の連絡もアプリのグループを作って管理されている。なのでメールの受信ボックスは通販やカード支払いの案内が殆どで、こうしてメールで連絡を取るのは恭弥くらいだ。


なぁ、恭弥はこのアプリいれてないのか?既読とか分かって便利だけど

必要ない

お前なぁ……

第一、読んだかどうか一々僕が気にすると思う?

…………いや、全く

でしょ


(……彼奴らしいよな)

何処までも自分らしさ≠ェ恭弥にはあって、自身の軸がブレることはない。群れるのが嫌いだといいつつ、実は手の内に入れた者は大切にしている。一見クールなのに誰よりも胸に秘めた思いが熱いことに気づいたあの日から、俺の心はジリジリと焦がされていた。男相手にこんな気持ち……と思っていたときもあったが、出会いから何十年たっても想いは変わらず、今は受け入れている。

(とはいえ、恭弥に伝えることはきっとないだろうな)

最近は、そう言うことへの差別も減ってきているとはいえ、一般的にはまだまだ少数派だ。それに恭弥を困らせたい訳じゃない。拒否されたり、軽蔑されるかもと想像するだけで怖い。そんなことになるくらいなら、今のままでいい。それで……いい。

「…………」

ブブッ

「!」

不意にまた着信を告げる振動。携帯画面に視線を下ろせば、恭弥からのメールだった。タップして開けば、端的な一文が目に映る。

【遅刻したら噛み殺す】

「……ッハハ」

思わず吹出した。
相変わらずな物言いと文章だ。仏頂面でメールを返信する姿が目に浮かび思わず頬が緩む。

「お兄ちゃん、次お風呂どうぞ」

「お、ありがとう」

「…………」

「ん?」

不意に後ろからかかった声に振り返る。お風呂上がりでほんのり火照った顔をして、湿った黒髪をタオルで拭きながら妹がじっとこちらを見つめていた。視線に気づいて首を傾げれば、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。

「なにか良いことあった?」

「そりゃあナツが帰って来てるんだから、嬉しいに決まってるさ」

「もう、お兄ちゃんってば……」

呆れ顔に変わる夏希。ハハッと軽く笑うと頭を撫でようとして……その手を引っ込めた。いけない、いけない。結婚して海人くんの奥さんになった妹。いつまでも幼い子どもじゃない。手を引いて歩くのも、涙を拭うのも……もう俺の役割りではないのだから。

(あんなに小さかったナツがなー)

大学入学と同時に一人暮らしを始めて実家を出たときは寂しかったが、ずっと見守ってきた2人が結婚式で幸せそうに寄り添う姿を見て心底嬉しかったし安堵したのも事実だ。それでも寂しさを感じてしまうのは、どうしようもないけれど。

「さーて、お風呂に入ってきますかね」

「いってらっしゃーい」

妹の笑顔に見送られ、携帯片手にソファから立ち上がった。



早めに就寝したはずなのに、何度も夜中に目が覚めた。時計を見てはなかなか進まない時刻に、まだか、まだか……と焦らされる。いつもは朝までぐっすり眠れるのに、ベッドでゴロゴロと寝返りを打つが直ぐには眠れない。原因は……分かりきっていたけれど、まるで思春期の男子のようでため息をついた。

結局予定の時刻より早く起床することにした。まだ朝日の登りきらない薄暗い部屋で大きく伸びをすると、いつものジャージに着替えてそっと家から抜け出した。

「っ……は、……はぁ……」

朝の空気は格別だ。澄んでいて気持ちがいい。

小学生のころから野球一筋だった俺は日々のロードワークとしてよくジョギングをしていた。始めは心配してついて来ていた両親も、次第に距離が伸びると諦めて家で待つようになった。もう学生の頃のように早くは走れないが、毎年開催している並盛市民マラソン大会に出れる程には、練習を続けている。趣味として続けている野球にもその練習は活かされていると思う。

近所の河川敷を一周し、帰路に着く。一汗かいてシャワーを浴びればモヤモヤとした気持ちが晴れて寝不足気味の頭がはっきりとしてきた。さて、着替えようとしてハッとした。そして、うーんと悩む。

「…………」

自室の部屋にある全身鏡に映る身体。黒のストレートズボンは履いたが、程よい筋肉がついた上半身はまだ肌色のままだ。日々の筋トレのお陰か、アラサーにも関わらず筋肉が衰えることはない。ボディビルダーを目指している訳では無いが、これも野球に必要な筋肉を維持するためだ。

ベッドの前で腕を組み、目の前に置かれた2種類の服を眺める。左にあるのはズボンと合わせた黒いジャケット。スーツほど硬すぎないが、レストランにも入れるようなお洒落な組み合わせだ。右は白のパーカー。カジュアルを売りにしているお店の服で、このまま運動できるほど着心地はいい。どちらにしようか……左右に何度も視線が行き来した。

「……お兄ちゃん?」

「ナツ」

「朝ご飯出来たよ」

「ん、あ……もうそんな時間か」

開けっ放しのドアの向こうから夏希が声をかける。視線を時計に向ければ、7時になろうとしていた。

「今行くよ」

「うん……洋服、選んでたの?」

「え、あー……そうだ!ナツならどっちがいい?」

「え?」

部屋のドアからベッドの前まで手を引き、タイプの違う2つの服を指差す。妹は左右を見比べ首を傾げた。

「うーん……何処に行くの?それにもよる気がするけど」

「いや、それが分かんなくてさ。やっぱ、無難にこっちかな。いや、でもお洒落なとこ行くとしたらパーカーは不味いだろうしなぁ。まあ、どっちにしたって彼奴は気にしないんだろうし、気づかないんだろうけど。俺は気にするんだよ……あーもう……」

「ふふ」

「ナツ?」

「お兄ちゃん、楽しそう」

ふんわりと笑う夏希。1つに後ろで纏められた髪がつられてサラリと揺れた。真っ白な項が目に入り、続いて朝ご飯を作った後なのか黄色のエプロンが目に映る。可愛い、可愛いと思っていた妹はいつの間にか綺麗な女性になったのだと今更ながらに実感した。

「そーか?」

「うん。今日は天気もいいし、楽しんできてね」

「……ありがとう」

お礼を伝えれば、部屋を出た夏希が思い出したようにクルリと振り返った。

「あ、そうだ。今朝ね海人さんから帰国が早まりそうだって連絡がきたの。夕飯食べてから帰る予定だったけど、色々準備もしたいしお昼食べたら家に帰ろうと思って」

「そっか。良かったな」

「うん、嬉しい」

はにかむような笑みを浮かべ、血色のよくなった頬を緩ませる。海人くんへの想いが言葉にしなくても伝わってくるようだった。そんな妹の笑顔を見てこちらまで幸せな気持ちになる。決して順風満帆な事ばかりではなかったことを知っているからこそ、今妹が幸せそうで本当に嬉しい。

「ナツ、」

「なに?」

「……海人くんに宜しくな」

「うん。またお邪魔するね」

「いつでもどうぞ」

「ふふ、ありがとう」

どうか、末永く幸せでいて欲しい。
そう願わずにはいられなかった。






「……やばい、早く着すぎたか」

携帯の時計を確認し、ふうっと嘆息する。結局、服は動きやすいパーカーの方に決めた。よく考えたらお洒落な所にいく可能性の方が低いし、カッコつけた所で気づいてもらえないだろうから。

約束した時刻の30分も前に着いてしまい、辺りを見渡すも当たり前だが恭弥の姿はない。休日のお昼前で駅前ロータリーは混んでいる。いつもは空いているベンチも既に先客で埋まっていた。家族連れやカップルを避けるように広場の端へ移動する。ドキドキと高鳴る心臓を宥めるように深く長く深呼吸をした。

(落ち着け、落ち着け……)

恭弥が来るまでにはいつも通り≠フ俺でいなくてはならない。野球の試合前で緊張しても、暫くすれば落ち着く心臓が何故か言うことを聞いてくれない。それでも俯いてふーふーと呼吸を続けていると、目の前に影ができて高い声が聞こえてきた。

「あのぉー、すみません」

「え、……はい?」

顔を上げれば、夏希より少し幼いだろうか。20代前半の女性2人組がこちらを見つめていた。茶髪と金髪という明るい髪色。4月に入ってから急に気温もぐっと上がった為か大分短いスカートを履き、上もトラブルに巻き込まれそうな程前が空いた面積の少ない服を着ている。今どきの学生さんといった所だろうか。

「お兄さん、ちょっとお願いしたいことがあってー」

「写真撮って欲しいんですけど」

そう言うが否やピンクの派手なスマホケースに入った携帯を強引に結希に押し付け、駅前の桜の木の下でポーズを決める2人。

(おいおい……)

呆気に取られた結希だが、まあ写真くらいはと思い直して携帯の撮影ボタンを押した。念の為に、2枚ほど多めに撮ると携帯を返す。

「ありがとうございます!」

「どういたしまして」

微笑みを浮かべて答えれば、キャッと黄色い悲鳴。それと同時に携帯を渡した手ごとガバっと握られる。一瞬ゾワッと悪寒が走った。僅かに強張る顔には気づかず、女の子達は結希を囲む。

「っ、」

「ね、ね!お兄さん。一緒にお花見行かない?」

「今日並盛公園で桜まつりしててー、私達2人だけだと寂しいなぁって思ってたの」

「…………えーと……」

握られた手をさり気なく離し、半歩後ろへ下がる。

「俺、待ち合わせしてるんだ。だから、無理かな」

「待ち合わせ……もしかして彼女さんですか?」

「……いや、友人だよ」

「なら、その人も一緒にどうですかぁ?」

「大勢の方が楽しいですよ!」

一歩前につめられて、結局元の距離に戻る。全く諦める様子のない2人にキラキラとした黒い瞳を向けられて、さて困ったと眉を下げたその時だった。

「結希」

「!」

「待たせたね」

「恭弥……っ、」

肩に乗る温かい手と低い声。驚いて振り返れば、濃紺の単衣と羽織に身を包んだ雲雀恭弥が目に入る。最近はスーツ姿が多かっただけに久しぶりの和服に目が離せない。呆気に取られてポカンと口を開けていると、恭弥は肩に置いた手をさり気なく腰に回して引き寄せた。密着する身体と身体。着物の良い匂いが鼻を擽る。ドキリと心臓が大きく跳ねた。

「っちょ……き、恭弥!?」

「なに」

「何って……」

「さあ、行こうか」

「はぁ……?」

そしてそのまま身体の向きを変え、歩き出そうとする恭弥。突然の行動に困惑していると、同じように目を丸くしていた女子2人が慌てて声を上げた。

「あ、あの!」

「お兄さんも良かったら一緒に……」

「見て分からない?」

「え、あ……」

振り向いた恭弥の鋭い視線が、2人に注がれる。息を呑んだと同時に、一言。


「邪魔だよ」


メールのような短い言葉を残して、今後こそ振り返らずに駅前の広場を通り抜ける。

「ちょ、恭弥……」

後ろを振り返りつつ、押されるままに歩く。広場を抜けると腰にそえられた手が離れ、1人先に行ってしまう。慌てて追いかければ、駅前のロータリーに出たところでやっと追いついた。

「恭弥!」

「…………」

「ま、待てってば」

「……はぁ」

後ろ姿に声をかければ、嘆息と共に振り返る。腕を組み、眉間にシワを寄せて機嫌の悪そうな表情をする恭弥に思わずうっと声を上げた。この顔をするときの恭弥は面倒くさいことが多い。しかも何に怒っているのかも分からない。

(そっちから呼び出したのに何だよ……)

「…………」

「恭弥?」

「…………」

「恭弥さーん?」

「…………こっち、」

数歩先を歩く恭弥の後ろ姿を追いかけながら、結希もそっとため息をついた。





「相変わらずモテるね」

「へ、」

「……」

続く沈黙を最初に破ったのは恭弥だった。先導するように先を歩いているので、表情までは伺えない。だが、雑談する程には機嫌も良くなったのだろうか。

「ああ、さっきのか。あれはモテるとかそんなんじゃないって。あれくらいの年の子は年上のお兄さんに憧れるもんだろ。もしくは、男の人と一緒にいると自分のステータスが上がると思っているか……深い意味なんてないさ」

「そう。それにしてはヘラヘラ楽しそうにしてたようだけど」

「どの場面を見たらそう見えるんだよ……ナツと同じくらいの年の子だと思うとさ、邪険に出来ないだけだって」

「ワオ、相変わらずの妹バカだね」

「それは否定しない」

「ハッ」

きっぱりと答えれば、声に出して短く笑う恭弥。一歩前に出れば、貴重な恭弥の笑みが見えた。残せるものなら写真で撮りたいくらいだが、生憎それは出来ないため記憶のシャッターを押して心に刻み込む。

「……そういうお前こそ、モテるんじゃないか。カッコいいんだし、強いしさ。彼女とかいたりして」

直ぐに否定の言葉が来ると思って出した軽い言葉だった。しかし、沈黙と共に振り返った恭弥の黒い瞳と自身の瞳が交差する。

「…………」

「恭弥?」

「……どうだと思う?」

「どう……って……」

「僕に彼女がいると思う?」

「……いや……、どうだろうな」

「…………」

自分から聞いたくせに、否定しない言葉に傷つくなんて勝手だと自嘲気味に笑った。心の奥底まで見透かすような視線に耐えられず、自分から目を反らす。

見上げた空は、自分が消えてしまいそうなほど綺麗な青空だった。沖縄の海のように透き通る青い空にポツンと浮かぶ白い雲。高くて遠くて……どんなに背伸びしても届かない。

(……っ、)

もし恭弥に好きな人ができた時、俺は笑っておめでとうと言えるのだろうか。

「…………」

「結希」

「…………」

「結希」

「っ、あ……わ、悪い。考え事してたわ」

「これ、つけて」

「ヘルメット……?」

いつの間にか目的地についていたようだった。投げられた丸いものを反射的に受け取れば、それは黒いシンプルなヘルメットだった。そして恭弥の目の前には見覚えのある黒い大型バイクが停められている。

「乗って」

「え、どこ行くんだよ」

「早く」

「あー、はいはい」

これ以上質問しても無駄なことは長年の経験から知っている。じろりと鋭い視線に押されるままヘルメットを頭につけた。

バイクに着物で乗れるのかと不思議に思ったが、着崩れることなく器用にシートへ跨る恭弥。どこからともなく取り出した紐でさっと袖をまとめてたすき掛けをし、グローブをはめる。気づかなかったが、下はしっかりブーツを履いていたようだった。銀色の鍵を鍵穴に入れて回すと、ブルルッと軽快な音が辺りに響き、目的地も知らないまま勢い良く走り出した。





「…………」

40分ほど走らせたバイクを駐車場に止め、エンジンを切った恭弥。ヘルメットを外して視界が一気に広くなる。それと同時に澄んだ山の匂いが鼻腔を擽った。ここへ来るまでの道中もまさか……と思っていたが、見覚えのある場所に目を丸くする。

「恭弥……ここって、」

「行くよ」

「え、ちょっと……待てって」

先にヘルメットとグローブを取っていた恭弥は、着物を直しさっと鍵をしまうと数メートル先にある鳥居へ向かって歩いて行った。慌ててヘルメットをバイクに置き、追いかける。

走り出せば、すぐ恭弥に追いついた。赤い鳥居を抜け、神社の参道を進む。真っすぐに何処までも続いているかのような石畳の道を会話もなく進んでいく。遠くで鳥の鳴く声が聞こえてきた。参道脇に植えられた背の高い松に見下されているような気持ちになり、思わず早足になる。

暫く歩くと、開けた場所に出た。真っすぐ進めば手水舎が右手側にあり、そこからさらに歩けば古い本殿が見えてくる。確か縁結びの神様が祀られているはずだ。

「…………」

「…………」

しかし、そちらへは行かずに左へ反れた脇道へ入る。石畳の道から砂利道へ変わり、歩くたびに石が擦れてジャリジャリと音がした。3分ほど歩いただろうか、再び開けた場所に到着する。その場に立ち止まる恭弥。

「着いたよ」

「…………」

そこは、ピンクの絨毯が一面に広がっていた。視線を上げれば寄り添うように立つ二本の桜の木が見える。2つの木を繋ぐようにしめ縄がぐるりと回され、紙垂が風で揺れていた。

桜の花弁がふわりと宙を舞う。ただ真っすぐ桜の木を見つめる恭弥。単衣の袖が風と共に穏やかに流れる。黒とピンクのコントラストが美しい。



幻想的な空間が、そこには広がっていた。



「……っ、……どう、して……」

「…………」

震える声で、恭弥に問う。
偶然で片付けるには、あまりにも……タイミングが合いすぎている。

「……どうしてって?」

「なんで……っ恭弥が知ってるんだよ……」

俺はこの光景を知っている。ただ知っているなんてもんじゃない。もう何年も前からここへ通っている。何時間も、それこそ朝から晩までいたこともあった。この木の美しい瞬間を見逃したくなくって。だって、

「……写真コンテスト、入賞したんでしょ」

「……っ、」

核心を突く言葉にビクリと肩を震わせた。

カメラは、家族にも友人にも誰にも話したことのない趣味だった。きっかけは……確か大学生の頃。本屋に並んでいたある写真家の写真集に衝撃を受け、気づけば写真の世界にのめり込んでいった。

しかしそれで稼げる人はごく僅かだと言うことも直に理解した。すでに大学へも進学しており、子どもの頃にお金も沢山使わせてしまっている。今更進路を変えたいなんて言えるはずもなかった。幸い、諦めるのは慣れている。趣味の範囲で続ければいい。そう自分を納得させて、今の会社へ就職した。

仕事が始まればカメラへの情熱も覚めるかと思ったが、気づけば野球の集まりが無い休みの日はよく出かけるようになっていて、ふとした情景に心を揺さぶられた。この瞬間を形にしたい、そんな思いが胸を熱くした。

「まぐれだって。たまたまスマホで上手く撮れたから送ってみただけだよ」

「結希らしくないね」

「……っ、なにが……」

「14回」

「っ!」

「それだけ落選しても、諦めなかったんでしょ」

「…………」

趣味の範囲で続けるはずだった。けど、気づけばのめり込む自分がいてもっとカメラについて学びたい、知りたいと願う気持ちを抑えきれなくなっていた。けど、今から学び直すとすれば専門学校のない並盛からは離れなくてはならない。家族や友人……想う人と過ごす穏やかな日常を思えば、そんなことできなくてカメラのことは誰にも言わずにいた。

そんな時、カメラを好きになったきっかけになった写真家が主催する写真コンテストがあることを知った。今回だけ、今回だけ……そう思いながら年2回開催されるコンテストへ写真を送り続けた。そしてついに先月、コンテストへ送ったこの桜の写真が入賞を果たした。



「おめでとう」



一言。
そのたった一言を聞いただけで不意にこみ上げてくる温かい涙。隠すように後ろを向いた頬を静かに伝って落ちていく。

「……っ誰にも言ってないのに、なんで恭弥が知ってるんだよ……本名だって出てなかったはずだろ」

「ワオ、僕に隠し事が出来ると思っていたのかい」

「はは……っホント……恭弥には敵わねーわ」

強引に涙を拭いて、クルリと振り返った。ニカっと笑えば、恭弥の頬にも優しい微笑みか浮かぶ。

(……うわっ、ちょ……それ反則……っ)

「っ、」

「あれ、結希顔赤いけど」

「き、気の所為だって」

「ふーん?」

覗き込むような視線に赤面して顔を背ければ、笑い声が響く。孤高の存在と言われている男が、俺の側で笑っていてくれる。

(……嗚呼、)

幸せだ、と胸の奥がジーンと暖かくなっていく。



「……恭弥」

「ん、」

「ありがとう」



この縁≠ェずっと続きますように。
二本の夫婦桜にそっと祈った。





***

夏希ちゃんの兄、結希さんのパラレルワールドの1つだと思って頂けたら…と思います。お兄ちゃんの日常というか、結希≠ウんに焦点を当てたお話です。雲雀さんと結希さんのお話にしたかったのに、前半兄妹メインのやり取りです(←あれ?)前回はほんのりでしたががっつりBLのお話を書くのは初めてなので、温かい目で読んで頂けたら幸いです……。
結希さんにとって、雲雀さんは憧れで、友人で、好きな人。雲雀さんにとっても結希さんは特別枠だけど、それが友愛か恋愛かは定かではない……そんな感じです。お目汚し失礼しました。

夢枕

「……よんじゅう……」


ピピッと聞こえた電子音。気だるい身体で脇から出した体温計に表示された数字を読む。

(やっちゃった……)

昨夜から嫌な予感はしていた。熱は無いのに体が重く、普段と変わらない生活リズムのはずなのにやけに疲れやすかった。喉の違和感や痛み、鼻水はなかったので単に疲れが溜まっただけかと思いつつも、念の為マスクをつけた。幸い子ども達はすぐに寝息をたてて寝てくれたため、残った家事を済ませてもいつもより早く寝ることができた。

日付けを跨いだ頃だろうか。寒気で目が冷め、思わず布団を抱きしめた。季節は冬も終わりを迎えて春間近。夜でも気温はそこまで下がることはなく、普段なら朝までぐっすり寝れるはずだった。起きて体温計を取りに行く気力もなく、朝まで何度か目が覚めては寝るを繰り返した。いつもの目覚ましアラームで怠い身体を起こし、今に至る。

「……はぁ……」

どうしよう、それが始めに頭に浮かぶ。熱でボーっとする思考。これからしなくてはならないことを指折り数えてリストアップする。時間になったら職場に連絡して、子ども達にも熱が無いか確認、保育園に送ってから医院に受診して……ああ、でも車運転できるかな……。

リビングの戸棚を開けて、透明の小さなケースを取り出す。パカッと開けて中に入っている常備薬の中から解熱剤を探す。子供用のキャラクターの書かれた薬の箱、絆創膏、湿布、包帯、目薬、塗り薬……量はまちまちだがどれも入っているのに、解熱剤だけが見つからない。

「…………あ、」

おかしいな、と考えて不意に思い出す。最後に使ったのは確か昨年の夏頃だっただろうか。季節外れのインフルエンザに罹った子どもの看病をする内にどうやら移ってしまったようで、子どもが解熱する頃に発熱したんだっけ。確かその時無くなって、元気になったらまた買いに行こうって思ってたけど……それどころじゃなくなって。

「………、…」

そこまで思い出して、冷たくなった手をぎゅっと強く握った。左手の薬指に光る銀の輪を確かめるようにそっと指でなぞる。無機質な金属のつるりと滑るような感触。こみ上げてくる何かをぐっと堪えた。

解熱剤が無いようでは、送迎は危険かもしれない。かと言って頼る人も……いない。両親は旅行へ行っているし、兄は県外へ出張中だ。ファミリーサポートに登録はしているが、今は双子の人見知りが凄く利用は難しい。仕事をしている友人に頼むのも……気が引ける。海人さんが亡くなってから何かと気にかけてくれている雲雀さんや山本先輩、沢田さんも数日前から会議でイタリアへ行くと言っていた。

(いっそ、保育園お休みさせようかな……)

そう思うも自身に熱がある中、まだ幼い3人の子供をつれての受診は正直きつい。空も卒園まであと数日。お友達と先生で過ごせる時間を大切にしてあげたい。それに感染症かどうかも確かめてもらう必要があるし、小さい子どもにママだけ寝かせて欲しいと頼むのは難しいだろう。

「……どうしよう…………」

八方塞がりで携帯片手にため息をつく。熱で頭痛が酷い。頭を抑えながらアドレス帳をスクロールした。

(だれか…………)

「!」

六道骸

あいうえお順に並んだ携帯の1番下に登録された名前。最近登録された電話番号に、思わず指が伸びる。受話器のマークを押そうとして、指が止まった。

「…………」

迷惑じゃないだろうか。ふと、そんな心配が過る。確かにあの時から六道さんとは少し距離が近くなった。何度か会う内に子供達も慣れている。でも、急にこんなことをお願いしてもいいのだろうか。

「うーん……」

「ママ?」

不意に近くで聞こえた子どもの声。驚いて振り返れば、1人起きてきた空が眠そうに目を擦りながら立っていた。

「ごめんね、起こしちゃった?」

「んーん。おしっこ行ってきたの」

「そっか、まだご飯用意してないんだ。着替えて待っててね」

「うん。ねえ、ママお顔赤いよ?」

「あ……えと、ちょっとお熱が出ちゃったんだ」

「だいじょうぶ?」

「うん、ありがとう」

心配そうな顔をする娘の頭を優しく撫でると、携帯をテーブルに置いてキッチンへ移動する。とは言っても身体は怠いし、正直卵1つ焼くことすら億劫だ。申し訳ないが皿に盛るだけのパンとヨーグルトにしてもらおうと冷蔵庫を開けた時だった。

「……あ……よ」

「?」

娘の話し声が聞こえてくる。自分に話かけているのかとキッチンのカウンターから顔を出せば、携帯を片耳に当てて話している娘の姿が見えた。

「え!」

慌ててキッチンから飛び出した。ふらりと身体が傾き熱があることを思い出す。足に力を入れて踏ん張り、娘の近くへ駆け寄った。

「あ、ママ」

「そら!?誰とお話して……っ、」

「むっくんだよー」

「え、」

パジャマ姿のまま嬉しそうに口角をあげて、携帯の画面を見せる娘。肩甲骨まで伸びる柔らかな黒髪が寝癖で跳ねていて話すたびにひょこひょこと動く。父親譲りの金の瞳がきらりと光った。

見せられた携帯の画面には六道骸≠フ名前と、通話中の表示。そういえば、アドレス帳を開いたまま携帯を置いたような……。

「…………」

「…………」

しばし沈黙。
思わず現実逃避したくなって目を瞑る。

(……いや、いや!駄目)

上手く働かない頭を必死に動かして、空から携帯を預かると右耳へそっと当てた。ごくりと唾を飲み込む。

「ろ、六道……さん?」

「はい」

「……すみません。空が勝手に通話ボタン押しちゃったみたいで……こんなに朝早くから申し訳ないです」

「……いえ」

電話越しに聞こえてきた低音。怒っているのかいないのか……声だけでは、まだ付き合いが浅い私には判断が難しい。電話だと分かっていても思わず頭を下げた。

「本当にすみません」

「別に……気にしてません」

初めより幾分柔らかな声にホッと息をつく。自然と頬が緩むのを感じた。

「そう言ってもらえると、助かります」

「それより、…………」

「?」

言葉を伝えようとして、何かを迷うような声。首を傾げると、暫く沈黙した後で再び声が聞こえてきた。

「……空から聞きましたが、体調が悪いんですか」

「え、」

「熱があるとか」

「…あー……」

六道さんの声に、思わず顔をしかめる。目の前の空を見れば、ソローっと外される視線。お喋りが大好きな娘は、もうそのことを伝えてしまったらしい。

「今朝から少し……でも、大した事ありませんよ」

「何度ですか?」

「え……」

「熱は何度だったのか、と聞いています」

「…………」

「…………」

無言の圧が電話越しに伝わってくる。観念して、ゆっくりと口を開いた。

「え……えと、確か40……℃だったような……」

「…………はぁ」

盛大なため息が聞こえてきた後、「一旦電話を切ります」と一言告げてツーツーと通話終了を告げる音へと変わる。

「?」

「ねぇ、ママ。むっくん何だって?」

「んー、電話切れちゃったから……あ、そうだ!朝ご飯用意しなきゃ。空、着替えたら陽人と朔人起こしてきてくれる?」

「はーい」 





怠い身体を動かして何とか食パンにジャムを塗り、牛乳をコップに入れて、ヨーグルトを器に盛った。シュガースポットが出たバナナを切ってヨーグルトの中へいれる。トレイにお皿を乗せて、スプーンを用意したら完成だ。簡単な朝ご飯だが、3人分用意しただけでもうヘトヘトだ。

ダイニングテーブルに移動して、子ども達が食べている様子を眺めながら椅子にもたれ掛かる。もう立ちたくないし、何もしたくない。食欲なんてないから早く横になりたい……そう思うが、そうはいかないのが現実だ。職場へ連絡は入れたが、結局この後どうするかも決めていない。

ピーンポーン

「……あれ?」

「お客さんだー!」

突然鳴るインターホン。時刻はまだ朝の8時だ。こんな朝から宅急便は来ないだろうし、誰だろう……とぼんやり考えていると、来客が嬉しいのか空が駆け出す。双子は我関せずでむしゃむしゃとパンを頬張っていた。

玄関へかけていった空を追いかけ、リビングの戸をくぐる。玄関を見た瞬間、思わず固まる。

「ろ、六道……さん!?」

「お邪魔します」

「ママ、むっくん来てくれたよー!」

そこにいたのは、サラサラと流れるような長い藍色の髪を後ろで1つにまとめ、黒い薄手のコートを着て立つ六道さん本人だった。

「どうしたんですか?」

驚いたように問いかければ少し眉間にシワが寄り、口角が下がる。機嫌が悪いのだろうかとも思うが、向けられる視線は鋭くはない。

「…………」

「?」

「貴女、熱があるんでしょう。早く横になったらどうですか」

「あ……えと、でもまだやる事が……」

「僕がやります」

「……へ、」

「入りますよ」

「え、あ………」

そういうと真っ黒な靴を脱いで、嬉しそうな空に手を引かれたまま家の中へと入っていった。呆然とその様子を見送り、ハッとして慌てて追いかける。

「ろ、六道さん?」

「まだそこにいたんですか、早く寝てください」

「で、でも」

「保育園の送迎くらい僕でもできます。空が小さい頃海人と行ったことがあるので、なんとかなると思います。保育園へ連絡だけしておいて下さい。それと、9時にタクシーが来るように連絡してあります。乗って受診してきて下さい。子どもたちの帰りも僕が迎えに行きますので」

「けど、六道さんのご迷惑じゃ……」

朝食を食べていた陽人と朔人と挨拶を交わし、空を椅子に座らせて食べるように促す六道さん。遠慮がちに聞けば、ギロリと鋭い視線が向けられる。

「構わないといったはずです」

「っ、でも」

「海人に……線香を上げるついでですよ」

「六道さん……」

反らされた視線。けれど、その不器用な優しさがじんわりと胸に染みていく。熱で緩んだ涙腺から涙が浮かぶ。涙が流れ落ちそうになるのをぐっと堪えて頭を下げた。

「……ありがとうございます」

「……」









「夏希」

辛そうだね、と心配そうな表情を浮かべて見下ろす金の瞳。熱でとろんとした視線を向ければ、細くて長い指先が額に触れる。

「まだ熱いね」

誰よりも温かい心をもった愛しい人。
洗い物をしてくれていたのか触れる手はいつもより冷たく、熱で怠い身体には気持ちいい。

「おかゆ、美味しかったです……」

「良かった。薬は飲んだ?」

「はい」

「じゃあ、また少しおやすみ」

風邪を引くと必ず作ってくれる海人さん特製のおかゆ。出汁が優しい味にしてくれていて、混ぜられた卵の黄色が可愛い。真ん中には鮭フレークや梅干し、しらすなどその時の食欲に合わせて変えられた具材。少しでも食べれるようにと工夫された海人さんの優しさが嬉しかった。

海人さんはいつも優しいが、風邪を引いたときは特別甘やかしてくれる。家事は勿論、氷枕の交換から水分の用意、着替えの手伝いまで。少し過保護だと感じるほどだ。普段は素直に気持ちのすべてを伝えることは難しいけど、熱がある時はついつい甘えてしまう。

「かいと、さん」

布団から手を出して、重ねるように手に触れた。自分以外の温かさが心地よい。強請るように金の瞳を見つめれば、優しい微笑みで頭を撫でてくれる。いつもは他の人にも向けられる視線が私1人だけに注がれていることに、愛しさが募る。

(……だいすき)

包み込むような安堵感。
鼓動を早めるときめき。
一秒でも離れたらバラバラになってしまいそうな不安。

海人さんに対する沢山の溢れる気持ちに名前をつけるとしたら、なんと呼べばいいのだろうか。

「夏希?」

「…………寝るまで、側にいてくれますか?」

食事を終えて薬も飲んだからか、再び眠気が襲ってくる。けど、1人で寝るのはちょっと怖い。熱があると眠りが浅くなるせいか悪い夢を見るのだ。それは決まって同じ、海人さんがいない世界で、一人ぼっちになってしまう夢。夢だと分かっていても、また見るのが怖くて寝れない。

目をこすりながら海人さんを見上げれば、布団をめくり隣に横になった。自然と枕から腕枕へと変わり、優しく抱き締められる。

「か、かいとさん……」

「ん、」

「風邪……うつっちゃいますよ」

「それで夏希が治るなら移ってもいいよ」

「海人さん!」

「ハハ、」

軽い笑い声が聞こえる。
先程よりも近くなった金の瞳。覗き込めばそこには自身の姿が映し出されている。私の瞳にも、海人さんが見えているのだろうか。お互いにお互いしか見えない。そんな小さなことでも、普段は閉まったままの独占欲が嬉しいと感じてしまう。

「大丈夫、ここにいる」

「……っ、」

「……たとえ見えなくても、触れ合うことができなくても。夏希が必要とする限り、ずっと側にいるよ」

「……海人……さん?」

「おやすみ、夏希」

額に落とされる小さな温もりとリップ音。
親鳥に包まれる雛の如く、愛しさの溢れる胸の中でそっと瞳を閉じた。





「…………ぁ……」

目を開けると、見慣れた白い天井と照明が見える。
涙で視界がぼやけて、泣いていることに気づいた。直前までどんな夢を見ていたのか思い出せない。確か幸せで……覚めてほしくないと思ったことだけは覚えているのに。

夢なんてそんなものだ。
曖昧で、不確かで……現実じゃない。

「……っぁ……ふ、」

なのに、

何故だろう。涙が止まらない。寂しくて仕方がない。幸せだけど苦しくて、嬉しいのに辛い。心がバラバラになってしまいそうだ。胸が張り裂けそうで思わず胸元の服を強く握る。

「……ぁ……っ…」

雨のように次々と流れ落ちる涙を拭う。クリアに見えた視界の先には、1つの枕が見えた。主がいなくなってしまった青い枕。お揃いにしようと一緒に買いに行ったっけ。海人さんの形見の品は少しずつ整理しているが、どうしても寝室は片付ける気持ちになれなくて、寝具やクローゼットの服はそのままだ。海人さんの枕にそっと頭を乗せれば、微かに海人さんの匂いがする気がした。


「……っかいと、さん」



本当に、俺と居て後悔しない?



いつか問われた言葉の重みをずしりと感じる。けれど海人さんと過ごした日々に後悔はない。例えあの日に戻ったとしても、私は何度でも同じ答えを出すだろう。

それでも、この寂しい気持ちを飲み込むにはまだまだ時間がかかりそうだ。

「……っ、」

唇を噛みしめ、痛いほど指輪を握りしめた。







ひとしきり泣いた後、熱があるのと泣き疲れたので気づけば再び眠っていた。次に目が覚めたとき外は夕暮れで、不思議なことに少し身体が軽くなっていた。枕元に置いていた体温計で測定すれば、37.6℃と表示されている。朝は40℃あったことを考えると、大分下がってきていた。午前中に受診した医院でも普通の風邪でしょうと言われている。

「良かった……」

ホッと息をついて、リビングへと向かう。ガチャリと扉を開ければ楽しそうな声が聞こえてきた。

「あ、ママ!」

「「だいじょうぶー?」」

駆け寄る3人の子どもたち。自然と笑みが溢れる。それぞれの頭を撫でれば嬉しそうに笑う。

「六道さん……ありがとうございます」

「体調はどうですか」

「熱も大分下がりました。1日ゆっくりできたお陰です。六道さんが来てくれて本当に助かりました」

「そうですか」

素っ気ない口調。それでも、子どもたちを見ていれば分かる。六道さんがいかに気を配って今日1日を過ごしてくれたか。六道さんの優しさが伝わる。

「既製品ですが、無いよりはマシでしょう」

「夕ご飯まで……本当にありがとうございました」

ダイニングテーブルに並べられた食事。スーパーで買ったものだろうか。すでに食べ始めていた子どもたちの好物のものばかりだ。

「ママ」

「なに?」

空がそろりと歩きながらお椀を持ってこちらに来た。しゃがんで目線を合わせれば、少し照れたような顔。

「むっくんとね、調べながら作ったんだ。ママ朝ご飯食べてなかったから。どうぞ」

「!」

受け取ると、ほんのりと温かい。器に入っているのは真っ白なお粥に卵が混ぜられたシンプルなもの。お米の優しい美味しそうな匂いが鼻を通り抜ける。

良かった。薬は飲んだ?

「…………っ、」

思わず、涙が溢れた。
空が不思議そうにこちらを見る。小さな頭をそっと撫でた。

「ママ?」

「ごめんね……っうれし、嬉しくて。空が作ってくれたお粥、大事に食べるね」

「うん!」

涙を拭いて空を抱き締める。お日様の様な温かくて心地良い体温。私の大切な、家族。

「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

ガチャリと扉を開ける音がした。思わずハッと振り向いて、頭を深く下げた。

「っ六道さん、ありがとうございました」

「……お大事に」

スッと消えた藍色の影。
今度、きちんとお礼をしよう。何がいいだろうか……。

悩みながら、子どもたちと夕飯の席につく。
手を合わせて、口を開いた。




「いただきます!」











***



悠汰さんの海人くん亡き後のお話を拝読して、思い浮かんだ話でした。久しぶりに一気に書けたので、内容が迷子にならなくて良かった……。

大切な人を失った悲しみはきっと、癒えるまでとても時間がかかりますよね。ふとした時に思い出しては悲しくなったり、苦しくなったり。けど、夏希ちゃんの周りには海人くんが繋いでくれた人が沢山いるから、笑顔にもなれそうですよね。子どもたちはボンゴレメンバーやお兄さんなど皆に支えられて大きくなるイメージです。

駄文失礼しました。







一得一失


「……っやっと見つけた……!」

海にぽつんと浮かぶ小さな小さな島。地図にも乗っていない未踏の地に長年探し求めていた答えは眠っていた。

鬱蒼と茂る原生林を抜けて、島の中央へ向かう。かつてここには小さな社があり、神事の際のみ神主が来ることを許されたという。しかし、長い時間の後にその一族も途絶え忘れ去られていった。

人が訪れなくなった今、朽ちた柱が僅かに残るのみで、人が作った建造物はもはや影も形もない。島の中央には船からも見えた大きくそびえる大木が立っていた。

「……っ、」

焦る気持ちを抑えながら木の根本に立つ。
首をぐいっと後ろへ反らさないと見えないほど高く、枝の広がった大木だった。80メートルはありそうな高さと人が30人はいないと届かなそうな太さの幹。樹齢1000年は優に超えている。おそらくギネスに乗っているどの木にも引けを取らないだろう。風が吹くと青々と茂った葉が擦れてざわざわと音が周囲に響いた。ゾクッとするような感覚に思わず息を呑む。

「かいと……オレ、なんて言うかさ……」

「…………うん」

「初めて来た場所なのに、そんな気がしないんだ。なんでだろ……ああ、そうだ……アルカイドと似た感覚がする。でも同じじゃない。凄く……怖い。嫌な感じではないんだ。でも……なんていうかさ、」

「……アルの言うこと、なんとなく分かるよ」

恐怖や嫌悪ではない。真っ先に感じるのは畏怖の念だ。思わず後ずさりそうになる足にぐっと力を入れた。これより先に立ち入ってはいけないと本能が告げている。人ではないナニカがそこにはいるのだと誰に言われるでもなく分かった。

「……アルはここで待ってて」

「海人?」

肩に乗る相棒を手に乗せて地面に下ろす。見上げる小さな茶色い瞳にそっと微笑んた。

「……呼んでるみたいだ」

声がするわけでも手招きされたわけでもないのに、何故か理解した。引き寄せられるような感覚。だが、何があるか分からない。アルは置いていこうと離れた手。一瞬ムッとした表情を浮かべたアルだが、次の瞬間には足から器用に駆け登り元の定位置へつく。

「お、おい」

「なーに言ってんだよ、最後まで付き合う」

「アル」

「オレはその為に外の世界へ出てきたんだ」

澄んだ瞳と真っ直ぐな視線がこちらを向く。ぐっと手を握りしめると俯いた顔を上げた。

「…………そうだな」

「よしっ、行こう!」

気合を入れ、木の幹に手を合わせる。
何もしていないのに、大地のボンゴレリングから柚子色の炎が出た。それが合図かのように硬かった幹がぐにゃりと変化し、木の中へと招かれる。転がるように木の中へと飛び込んだ。



「……っ、」

「珍しいこともあるものじゃな」

「…………キミは……」

木の中へ入るとそこは、一面草原が広がっていた。遮るものがなくどこまでも続いているかのような、緑。目の前の巨木だけが、先程見たものと同様だと感じる。

そんな木の根本に腰をかけて座っているのは若草色髪をした幼き少女。海人に気づくと星のように輝く金の瞳がこちらを向く。外見は夏希と出会った頃の歳と同じくらいだろうか。見た目とはそぐわない口調で口を開いた少女は、そっと微笑んだ。

「お帰り、大地の子よ」

「っ……」

「ここまで辿り着くものがおるとは……久しいのう」

脳に直接響くような、優しく澄んだ声だった。微笑みを浮かべる顔は聖母のようで、絵画に描かれるように美しい。だが、近づくのは躊躇われる。人ではないと瞬時に悟った。

「……っ、アル……」

不意に先程まで共にいた相棒がいないことに気づき、周囲を見渡す。足首ほどの高さの草原ばかりで見落とすことはなさそうなのに、見つからない。

「ん?お主と共にいたリスであれば、ここへは入れぬ故に元いた場所におるじゃろう」

「……」

「なんじゃ、安心せい。島には植物以外の生き物は少ない。虫なんかはいるかもしれぬが、リスを襲うようなものはおらんよ」

「…………キミはいったい……」

「我か?そうじゃな……お主と近しいものだよ、大地の子。大地の神よりこの地に遣わされて、そなた達大地の子らを監督する責を受けておる。この場から動くことはできぬが、故にお主等の目を通して外の世界のことは大体把握しておるよ」

「……っ、」

ぶわりと風が吹いて、海人の髪を揺らして通り過ぎた。バクバクと心臓が鼓動を早める。緊張で握った手が湿っているのを感じる。

「ここへ来たということは、何か望みがあるのであろう、言うてみよ」

「……大地の波動を持つ者の、短命の呪いを解きたい」

「ほう」

「アルカイドから聞いた。大地の波動が使えるものは能力使用の有無に限らず短命だと。俺も30を超えられないと言われている」

「ふむ、また懐かしい名前が出たのう。そうじゃ、お主等大地の子は代々短命で間違いない。そなたも……見たところ残りは少なそうだ」
 
「…………っ」

「まどろっこしいのは嫌いでな。結論から伝えよう。解呪は可能だ。ふむ、そうじゃの……」

見定めるかのように、自身と同じ金色の瞳がこちらを向いた。心の奥底まで見られているようで落ち着かない。ごくりと知らない内にツバを飲み込む。

「……よかろう」

「!」

「呪いを解こう」

少女は立ち上がると、数歩前に出て海人へ近づく。無表情のまま両手のひらを上へ向け左右へ広げると、大きく手を打った。パチンと静寂な空間に音が鳴り響く。

「……っ、」

「大地の子よ。今この瞬間、短命の呪いは解かれた」

「……………っ…」

微笑みを浮かべて少女は話すが、呆気なさ過ぎて実感がない。ここにたどり着くまでの苦労や時間がかかっただけに、慎重になってしまう。だが実際短命でなくなったかどうか確かめる術はない。

(けど、本当であれば……あの子達はもっと生きることができる)

大地の波動を受け継いだ空。そしてまだ幼くて分からないがもし陽人や朔人が大地の炎を受け継いだとしても、人として当たり前の年月を生きることができる。様々な出逢いと別れを繰り返して、好きな人や大切な仲間を見つけて共に過ごす、そんな当たり前の人生を送ることができるはずだ。

「……よかった…」

ぽつりと言葉が溢れた。安堵からホッと息が漏れる。間に合った。自身の血を受け継いだせいで子供にまで呪いを背負わせてしまうところだった。それだけはなんとしてでも避けようと、子どもが生まれてからはそれまで以上に短命の呪いを解く手掛かりを探した。探して、探して、探して……ようやく辿り着いたのだ。

海人さん

優しく微笑む愛しい彼女とも、もっと一緒に過ごすことができるのだろうか。諦めていた先があるなんて、望んでもいいなんて……夢のようだ。ポカポカと心臓に温もりが染みていく。

「……こんな日が……くるとは思ってなかった」

「よかったのう、これも善行を積んだそなたの功績故じゃ。これからも精進することじゃな」

ほほ、と朗らかに笑う少女。名前も、何者なのかも分からないが敵対心がないのは伝わる。もっと話せば教えてくれるのだろうか。

「これから先、大地の炎を使う副作用はどうなる。寿命と関係するのか教えて欲しい」

そう問うと、少女は一瞬目をまん丸にした後、鈴を転がしたような声を上げて笑った。その姿は絵になるほど美しいのに、何故か背筋が凍る。嫌な汗がぶわりと沸く。

「ふふ、おかしなことを言うなぁ」

「……は、」

「短命の呪いは解かれたのじゃ。許しを得たそなたは、これより永久の時を生きる」

「え、いきゅう……?」

「いくら癒やしの力を使おうとも、老いることも、病むことも、死することすらない。そなた達人間が、古来より追い求めていた不老不死と呼ばれる存在じゃな。元より大地の子は永遠の命をもたない人間を憐れんだ大地の神によって、傷ついた人を癒やすという役割を与えられて産まれてきた。しかし人の身で大地の炎を扱うには、寿命が足りない。故に始めから不老不死であったのだ。昔の話になるがある大地の波動の持ち主が罪を犯した。罰としてそれ以降の大地の子どもらを短命に処したが、今そなたが許しを得て元に戻っただけのこと。短命にも関わらず更に自身の命を削って癒やしの力を使い、人々を救って我まで辿り着いたそなただからこそ許された。手に入れたのは輝かしい未来≠カゃ」

「……っ……ぁ……」

思わずその場に崩れ落ちた。
天国から地獄へ落とされたような絶望感。ポタリ、ポタリと涙が雫となって頬から流れ落ちる。そんな気持ちを梅雨とも知らず、少女は不思議そうに海人を見つめる。

「何故泣くのだ、愛しい大地の子」

「……っ、そんなものが……欲しいんじゃない。俺が探していたのは、大切な仲間や愛しい人と共に生きて老いて死んでいく未来だ……っ永遠なんて望んでない!」

「……分からんのう。短いより長いほうがよいじゃろう。まあ、人ではない儂には理解できぬことだな」

首を傾げて困ったように答える少女。言い争っても分かりあえないと悟る。見た目は可愛らしい少女でも、やはり人ではないのだろう。

「……ッ子どもは……俺には大地の炎を使える子がいる。子ども達はどうなる!?」

「子ども?……そうじゃな。大地の力をどれだけ受け継いだかによるが、遺伝から得た力であれば恩恵は半減するじゃろう。つまり、只人よりも長生きはするだろうが、完全な不老不死ではない。肉体の成長が止まるまでは普通に成長し、その後は徐々に歳を取らなくなる。うーむ……その場合は1000年もすれば死ぬだろう」

「…………っ」

突然の情報量に思考が追いつかない。少女の言葉を反復する間に、ふと空を見上げた少女が残念そうな表情を浮かべた。

「さあ、大地の子よ。別れの時がきたようだ」

「っ、まだ話は終わってない!」

「儂にはもうないのじゃ。それに、いいのか?」

「……っ?」

「ここで過ごす時間は外のそれとは異なる。外はここよりもずっと早いスピードで過ぎていく。お主の大切なものと別れを言う間もなく離れることになるぞ」

「なっ、」

「またな」

絶句している間にパチンと手を打つ音がして、気づけば元いた大樹の根本に戻っていた。

「…………っ、」

混乱する頭で、どうしたらいいのか考える。先程のように大樹の幹に手を当ててもなにも行らない。招かれていないということだろうか。

ここで過ごす時間は外のそれとは異なる

「っ、アル」

少女の言葉を思い出し、慌ててその場を探す。だが、何度呼んでも泥だらけになりながら探しても、相棒の姿は見当たらなかった。






「…………っ、」

一瞬、鏡を見ているのかと錯覚した。

「……っとうさん……」

見慣れた家の玄関。その前に立つのは、自身と同じくらいの背丈の青年。夏希のように柔らかな黒髪。金と黒のオッドアイの瞳が驚きと動揺で揺れていた。最後に見た姿は3才になったばかりの幼い姿。パパ行かないでと、泣いてしがみついていた記憶は新しい。だから、こんなこと……あり得ないはずなのに。けれど、目の前の青年が誰なのか答えを言われずとも分かる。

「さ…くと……?」

「……ッ」

呆然と名前を呼べば、キッと鋭い眼光がこちらを向く。

「……今更、何しにきた」

「……っ」

「今までずっと母さんを放ったらかして、どの面下げて来たんだって聞いてんだよ!」

ぐいっと胸ぐらを掴む手。記憶の中の朔人は自身の手よりもずっとずっと、小さくて。簡単に抱っこ出来るほど身体だって軽かった。こんなに……大きく、ましてや青年であるはずがない。

けれど、目の前の青年が朔人であることもまた事実。

(ああ……)

信じたくなかった。
けど、もう認めざる得ない。

「答えろっ!」

ここへ来る前に空港の新聞で確認した日付け。それは、大樹の中へ入った日から60年後≠フものだった。

「朔人?…………っ、」

騒ぐ声が聞こえてきたのだろう。玄関の奥から若い女性の声が聞こえてくる。パタパタとスリッパの音がして、長い黒髪の女性が顔を出した。朔人と同様にこちらを見ると驚きで言葉を失う。金と金の瞳が交差する。

「……父さん」

「姉ちゃん、こいつッ!」

「朔人、止めなさい」

「……っだって!」

「朔人」

「……ッ……」

言葉で制されて、俯く朔人。一歩前に出ると、真っ直ぐ海人を見つめた。大きくなった、そんな当たり前の感想しか浮かばない。外見は俺と酷似していたが、こちらを見つめる柔らかな視線は夏希と似ている気がした。

「……空」

「……入って、父さん」

「……っ、」

空に促されるが足が前に出ない。勢いのままここまで来たが、玄関の敷居を跨ぐ資格なんて俺にはないのではないだろうか。未だにこちらを睨むように見つめる朔人。朔人の言う通りだ。俺にはほんの少し前の出来事でも、家族にとっては60年ぶりの再会なのだろう。それまで放ったらかして、短命の次は長命なんて呪いを押し付けて。合わす顔がない。

「……っ」

「母さん、ずっと待ってたよ。父さんが行方不明になってからも帰って来るって信じてた。アルくんも、沢田さん達も最期まで信じてた。もう、母さんね長くないの。最期はここで過ごしたいって病院から帰宅してきた。このまま会わずにいなくなるなんて、酷いこと……娘の前でしないでね」

「ッ、」

「入って」

有無を言わせない圧力を感じた。促されるまま、玄関の扉をくぐる。家の中は、記憶の中の自宅と殆ど変わりなかった。幾分古くなって、使い古された家具や壁。リビングには60年分の思い出が可愛らしい額縁に入れられて飾られている。すんと鼻をくすぐる匂いは、夏希が気に入っていたアロマの芳香剤だ。

「…………母さん」

リビングから中庭が見える窓の近くにベッドが用意されていた。先を行く空がそっとベッドで横になる人物に話しかけた。

「……っ」

足が竦む。震える手と霞む視界。思わず俯く。知りたくない、受け入れたくない気持ちと葛藤する。夏希を見てしまったら、今度こそこの現実を受け入れないといけないような恐怖と絶望。

「…………父さん」

「……っ、」

空の声だけがリビングに響く。
一歩、また一歩と初めて歩く子どものようにゆっくりとベッドへ近づいた。




「……なつき」




共に笑い、泣き、最期まで一緒にいると誓ってくれたかけがえのない女性。怯えて拒絶しても諦めずにしがみついて、愛を教えてくれた。幸せのかたちそのもの。

「…………っぁ……あ……」

大粒の涙が零れ落ちる。
短命の呪いを解いた代償は、あまりに大きかった。







***

もし海人くんが背負う呪いが短命ではなく長命だったら……と想像したお話です。大地の波動に関してかなり想像で書いた部分があります。すみません。パラレルワールドの1つだと思って頂けたら……。
本当は過去の思い出を大事にしながら、何代目かのアルデバランくんと終わりのない旅を続けているお話のはすが、気づけば救いのないお話になりました……。あれ?
海人くんごめんよ……。
駄文失礼しました。










非日常と日常

「…………っぁ……」

言葉が出ないとは、こういうことを言うらしい。



教会のステンドグラスから夕日が差してオレンジ色に染まった空間。決して大きいとは言えないこの町にある小さな教会。昔、有名な職人さんがこのステンドグラスを作ったとかで有名になった唯一の観光場所だ。

昼間の明るい日差しに照らされた空間も素敵だが、私は昔から人もまばらになったこの夕刻の時間が好きだった。椅子に座りボーっとしたり、スケッチをするのが日課。両親とは違い決して熱心な信者とは言えないが、神父様も好きにして下さっている。今日もいつもと変わらない、そんな日になるはずだった。

手元の紙にいつものように鉛筆を走らせる。何も無い白紙から作り出される教会内の風景画。殆ど完成された絵だが、何か足りない……うーんと唸るとコツコツと後ろから足音が聞こえてきた。

(……誰だろ)

こんな時間に珍しい……そう思って、顔を上げた。

「…………っぁ……」
 
言葉が出ないとはこういうことを言うのかと、呆然として上手く働かない頭で思った。

(……女神、さま……)

ステンドグラスの光の下に照らされて立つ、1人の青年。私よりも10歳ほど年上だろうか。すらりと伸びた長い身長に、細身の身体。裾の長い黒い服がよく似合う。イタリアでは珍しい烏羽色の短い髪。そして、まるでモデルのように整った中性的な顔立ち。少し不機嫌そうに教会内を見渡す金の瞳。

図書館の本で見た外国の美術館に展示されている神様の絵画のようで……いや、それ以上の美しさと神々しさすら感じた。

惚けて青年を眺めていると、イエローダイヤモンドのように煌めく瞳がこちらを向いた。

「っ、」

「…………何か用か」

「い、いえ……あの、その……」

「あ?」

男性にしては低すぎない、頭まで優しく届くような声だった。話しかけられただけで鼓動が大きく、早く動いた。視線を向けられるだけでビリビリと身体に電気が流れるような感覚に襲われる。

「……め、女神様ですか……?」

「はぁ?」

「っいや、あの……すみません。本当に綺麗だったので………」

「…………」

尻すぼみする声。急に羞恥心で一杯になって俯く。顔に熱が集中し、真っ赤に染まったのが鏡を見なくても分かった。

「……」

特に返答もなく、無言の空間に戻る。チラリと青年を見上げればくるりと身体の向きを変えて教会の出口へ向かって歩きだしていた。

(行ってしまう……!)

「……っ待って下さい」

「……おい」

気づけば、服の裾をがっしりと掴んでいた。不機嫌そうな声が聞こえてくるが、離すもんかと力を込める。

「お願いします……っ絵の、モデルになってもらえませんか?」

「…………はぁ?」

驚いたような、呆れたような声が聞こえた。見上げれば鋭い眼光と対峙する。心の奥底まで見ているかのような、荒々しくも透き通った瞳。今更手が震えてきたが、負けじと視線を反らさず再度お願いをする。

「……お手間は取らせません。お礼は……っ少ししかお渡し出来ませんが、貯めてきたお金があります。お願いします。どうしても貴方を描きたいんです」

「興味ない、他をあたれ」

「お願いします!」

「……っち……あのなぁ、お前の目に俺がどう映ってるのか知らねーが、容姿を褒められたってんなもん胸糞悪いだけだ。女神だぁ?くだらねえ。俺はそんなお綺麗なもんじゃない。ガキは早く家に帰ってママの乳でも吸ってろ」

「……嫌ですっ!」

「しつこいな……」

「っ貴方がいいんです。貴方じゃなきゃダメなんです。上手く言葉では言えないですけど……この絵に足りないのは貴方だって、ピンときたんです。だから、うんと言ってくれるまで離しません」

「…………」

「絶対にっ!」

ハァと盛大なため息が聞こえてきた。見ず知らずの人間にこんなことを言われればいい気はしないだろう。迷惑をかけているのは分かりきっているが、それでもこのチャンスを逃したくない。ドキドキしながら相手の返答を待つ。

「……明日の同じ時間」

「!」

「1時間だけだ、それ以上は無理だからな」

「っ、ありがとうございます!」

自然と笑みが溢れて、胸が熱くなる。何度も頭を下げてお礼を伝えるが、答えることなく青年は去ってしまった。

「…………」

1人きりに戻ると、先程までの出来事がまるで夢か幻のように感じるが、まだドキドキと高鳴る心臓が現実だと告げている。ほぅ、と息をついて椅子に腰をかけた。

「……明日、頑張ろう」

決意を込めて、ギュッと手を強く握り締めた。




「今日はありがとうございます」

「……別に、暇だっただけだ」

「ふふ、でも嬉しいです」

翌日、名前も知らない彼は約束通りに教会へ現れた。昨日と同じラフそうな黒色の服を着て、気だるそうに椅子に腰をかける姿は、それだけで絵になる。

紙に鉛筆を走らせる。いつもと同じ作業のはずなのに胸が熱い。動かす手が早く、早くと先を急かす。ドクドクといつもより早い鼓動が聞こえてくるようだった。自然とペースも上り調子で、その分修正も多くなっているが楽しかった。こんな気持ちは久しぶりだ。

「……本当に綺麗な瞳ですね。髪の色と相まってまるで夜空に浮かぶお月さまみたいです。私なんて髪も目もただの茶色で……両親と姉は蜂蜜のような柔らかな金髪に深い海の底のようなブルーの瞳なんです。なんでお前だけ……ってよく言われました。そんなこと言われたって、私がこの容姿を決めて生まれてきた訳じゃないのに」

「……」

「双子の姉は頭も良くて、お人形さんのように可愛くて皆に愛されているんです。逆に私は要領悪くて、がさつで大雑把。お世辞を言ったり空気を読むのがどうしても苦手で。お前は可愛げないってよく言われました。双子なのに大違いだって。両親は姉ばかり可愛がって、食べるものも着るものも差別されて育ちました。だから……なのかな、姉とは自然と距離が空いちゃって。ここ数年はまともに会話もしてないんです」

見ず知らずの人にこんなことを話すなんて、私らしくない。けど、何故か今日は口が軽かった。鉛筆を動かして作品を描くと同時に自分の中からもナニカが出ていく……そんな不思議な気持ちだった。

「両親からの愛はとっくに諦めています。なんの感情もありません。でも、姉のことは……嫌いになれたら楽なんですけどね。私の欲しかったものを全て持っていて、目の前でキラキラと輝く姿を見続けるのは正直辛いし嫉妬だってします。姉さえいなければ……と考えたこともある。けど……本当に姉って良い子なんですよ。返事もしないのに話しかけ続けてくれるのも、姉だけなんです。ごちゃごちゃしてますよね、まとまりのない話ですみません」

「……」

「家でも学校でも居場所がないけれど、でも悪いことばかりではないんですよ。姉が期待される分、私になにも関心が向かないので好きにできるんです。1人の時間が長いので全て大好きな絵に注ぎ込みました。私だけお小遣いもないので、バイトをしながら絵を描く毎日ですが、いつかきっと……世界中を見て回りたい。美しいもの、綺麗なものに沢山触れて。人工物、自然、建物、食べ物……まだ知らない色々なものを見て触れて、描きたい。それが私の夢なんです」

誰にも話したことのない、たった1つの夢。

こんな田舎町ではここから出ることなく一生を終える人の方が多い。まともに絵の勉強をしたわけでもなく、ただ我流で描きたいものだけ描いてきた。そんな小娘が画家として食べていけるなんて、ありえないことだと100人聞けば100人が同じように答えるだろう。お前なんて無理だと笑われるような……そんな分不相応な夢。

分かってる、自分だって嫌ってほど分かってる。でも仕方ないじゃないか、焦がれるほど絵が好きで欲している。絵を描いている間だけが、上手く息が吸えるんだ。

(きっと彼も笑うのかな)



「……そうか」



ポツリと、彼は呟いた。
先程までとまるで変わらない表情で。

「…………っ笑わないんですか」

「笑って欲しいのか」

「……いえ…」

静かに胸の中で炎が灯った。じんわりと染み渡るように温もりが広がっていく。掴めないが確かにそこにあるもの。確かめるかのように胸に手を当てた。

「……ありがとうございます」

「あ?」

「いえ、なんでもありません」

訝しげにこちらを見る金の瞳。自然と溢れる微笑みを手で隠すと、再び鉛筆を紙に走らせた。

それから沢山の話しをした。
最近の町の様子や、安くて美味しいお店、1番綺麗に夜景が見えるスポット。好きな料理やから苦手な食べ物まで。絵を描き始めたきっかけや、好きな画家さんの話しなど止まることなく話し続ける。時には笑い、眉を潜め、怒り、肩を震わせて。

彼からは特に返答はなかったが、話しを遮ることも否定したり馬鹿にすることもなく聞いてくれた。こんな風に人と話すのはいつぶりだろう。

「初めて絵が売れたとき……本当に嬉しかったなぁ。日本から観光で来てた男の人で、路上の片隅で額縁もなく置いていた1枚の絵をじっと見つめていたんです。近くの店の中にはもっと上手い大きな絵が沢山あるのに、10才の子どもが描いた小さくて下手な絵を選んでくれた。お金を稼げたことも勿論嬉しかったけど、大切にするよ≠チて言ってくれたその言葉がとても……とても嬉しかった」

「…………」

その時は上手くお礼を言えなかったけれど、いつかまた会うことがあれば沢山の感謝の言葉を伝えたい。

「……絵が、好きなんだな」

「!……っはい」

満面の笑顔でそう答えれば、呆れたような表情を浮かべた後に何かを思い出すように遠くを見つめ、微笑を浮かべた。

「……っ……」

微かな変化だったが、初めて見た笑みに胸が高鳴る。ゾクッとした妙な高揚感が身体を走って自然と口角が上がった。パズルの最後のピースがはまるような感覚がして、鉛筆を握る手に力が入る。





「…………できた」

ようやく完成した絵。やり切った達成感と疲労を同時に感じて、大きく息を吐いた。

「……やっと、しまいか」

「はい、ありがとうございました」

青年が椅子から立つ音が聞こえてくる。お礼を伝えなくてはと顔を上げれば、薄暗闇にランプの火のような金の瞳が見えた。炎の煌めきにも似た光に思わず見惚れるが、ハッとして外を見た。すでに日は落ちて暗くなっている。

「す、すみません!1時間だけって約束だったのに……」

「ほんとにな」

「……すみません……」

描き始めてから3時間は経過していただろう。申し訳無さで消えるような声で頭を下げた。

「じゃあ、俺は帰らせてもらう」

「はい、本当にありがとうございました。これ、少ないですがお礼です」

すぐにくるりと身体の向きを変えて帰ろうとする青年に、慌てて鞄の隣に置いておいた紙袋を手にする。

「なんだ、これ」

「え、あの……お約束していたお金です。それと」

急に恥ずかしくなって、視線を彷徨わせる。ギュッと紙袋の持ち手を握ると思い切って前に差し出した。

「今日はバレンタインだから町中で沢山綺麗な花が売っていたんです……っべ、別に特別な意味はないんです。でも本当に今日は助かりました。なので受け取って頂けたら……嬉しい、です」

「…………」

暫くの沈黙の後、ガサリと音がして手が軽くなった。袋のなかには茶色い封筒とピンクのガーベラが1本丁寧にラッピングされていた。

「こんなこと、言って良いのか分からないですけど……とても楽しかったです。貴方に会えて良かった。今日のことは一生忘れません」

「…………」

「?」

「お前はきっと、――――すると思うけどな」

「え……?」

ポツリと何か青年が呟いたが丁度教会を閉める合図の鐘が鳴り、途中が遮られて聞こえなかった。首を傾げるも青年はもう口を開かなかった。

「今日は本当に、ありがとうございました」

深々と頭を下げて、再び顔を上げると同時にこちらに向かって何かが投げられた。反射的にキャッチすれば、それは渡したはずの茶色い封筒。

「っえ、あの……!」

「ガキにたかるほど、金に困っちゃいないんでな」

「でも、」

「じゃあな」

そう言うと、片手を上げて去って行った。呆然とその後ろ姿を見送るしかなかったが、教会の扉が閉まる音で我に返る。慌てて扉まで走って開けるも、すでにそこには誰もいなかった。

「…そういえば……名前も聞かなかったな……」

後悔がチクリと胸を刺すが、それ以上に今はポカポカと温まった心が嬉しかった。急いで帰り支度を済ませると、すっかり暗くなった道を急ぎ足で駆け抜けた。






「確かここに……あった!」

家に帰ってから、いつものように一人でご飯を食べるとすぐに自室に籠もった。今日描いた絵を入れる額縁を探して、見つけた1つ。すでに入っていた絵を出して今日描いたものと入れ替える。

「…………うん」

絵を入れたものを抱えてニヤニヤと笑う。自然と口元が緩むのは止められない。自画自賛かもしれないが、今まで描いてきたもので1番上手く描写できたと思う。

「……楽しかったなー」

絵を見ながら、今日の夢のような時間を思い出していた時だった。

ガシャン!

「っ、」

突如家の中で、何かガラスのようなものが割れる音が響く。それと同時に部屋の電気が消えて真っ暗闇になった。他の部屋も停電したのか急に家中が静かになる。

「……っえ、」

思わず絵を胸に抱いて、身体を強張らせる。暗闇に目が慣れるまでその場から動けない。その間も部屋の外からは何かが倒れるような音が聞こえてきていた。

「…………っ」

怖いが、このままいても危険かもしれない。この部屋には窓がなく逃げようにも一旦部屋の外に出るしかない。そう思うと、絵を抱えたまま部屋の扉をそっと開けた。

部屋の外は真っ暗闇で廊下に自身の足音が響く。極力音を立てないように静かに廊下を移動する。

(あれ……?)

すると、一部屋だけ明かりがついていることに気づく。そこは父の書斎だ。

「…………」

ゆっくりと、静かに足を進めた。

「…………」

ギィ……、
扉に手をかけるよりも早く、勝手に戸が開く。咄嗟に隠れなくてはと思ったのに、反射的に見てしまった部屋の中の光景に、その場から動けなくなった。ドキドキと胸が苦しいほど心拍が速まる。冷汗が米神を伝う。

「……っぁ…………」

部屋の中央に設置されたデスクの前で父と母が重なるように倒れていた。首から真っ赤な血を流しているのか、顔周りにはすでに血溜まりができていた。身体はピクリとも動かない。いつも自慢していた青い瞳は曇ったビー玉のように光を反射しない。とくに母の顔は恐ろしいものを見たかのように恐怖を浮かべて固まっていた。

「…っひ……」

一歩後ずさる。
すぐに壁にぶつかってその場に座り込んだ。いくらもう期待してない両親とはいえ、まさか死に顔を見ることになるとは思っていない。しかも初めて見る殺された遺体、身体が震えた。

(……っなにが、どうなって……)

「…………だから、言っただろ」

「っ!」

「お前はきっと、後悔するって」

突如かかる低い声に、ビクッと身体を震わせる。怯えたように声の方を見れば、驚きと絶望で目を見開いた。

「…………」

「……っぁ………ど、して…」

「……」

上から下まで真っ黒な服に身を包み、真っ赤な血が滴るナイフを片手に堂々と廊下に立つ青年。黒髪の間から金の瞳が鈍く光った。

昼間会った、あの青年だった。

「…………っ、」

「さあ、今度は俺の用事に付き合って貰おうか」

絵を抱えたまま思わず後ずさるも、背中はすでに壁でこれ以上動くことは出来ない。自然と涙が溢れて頬を伝って落ちた。

「……っ……」

恐怖でどうにかなってしまいそうなのに、こんな時ですら目の前の青年に惹かれてしまう。血の色やナイフすら似合うなんて、頭が可笑しくなったのだろうか。

(わたしも……殺されちゃうの、かな……)

こんなときですら、今の彼を描きたいと思う私はやはりどこか可笑しいのだろう。

「……これにこりたら、少しは他人を警戒することを覚えることだな」

「わ、たし……っ」

「じゃあな」

青年が大きく手を振り上げ……意識はそこで闇の中へと落ちた。






「ご苦労さま」

「ったく、面倒ごと押し付けやがって。いつからてめぇはそんな偉くなったのかね」

「……いや、一応ここのボスなんだけどね」

ヘラリと苦笑する男……10代目ボンゴレボス沢田綱吉は報告書を受け取る。サッと目を通すと小さく息をついた。

「……まさかとは思ったけど、やっぱり裏切ってたか」

「こんな世界じゃ、裏切りなんざ珍しくもないだろ」

「まあ、そうなんだけど……そうであって欲しくなかったっていうのが本音ですよ」

ボンゴレ傘下の古参マフィアが裏切っていると匿名の連絡を受け、調査と始末を任された空人か向かったのはイタリアのとある田舎町だった。事前の情報通りにそのマフィアでは密かに裏切りの準備を進めていた。綱吉の時代からボンゴレ内で禁止されている非合法な商売も続けていたらしい。協力者からの証拠提供もあって仕事が早く済んだのは楽で良かった。

「……それで、子ども達はどうなりました?」

「…………ご指示通りボンゴレ傘下の孤児院へ入れた。相変わらず甘ぇな。ガキだからって生かしてたらいつか復讐にくるとは思わないのか」

「……うん、そうだね。でも、あの子達なら大丈夫だと思う。空人くんもそう思ったんでしょ?」

「…………ッハ」

指示はしたが最終的な判断は現場に一任している。今子供達が孤児院にいるということは、そういうことなのだろう。

視線をデスクの上にある小さな写真立てに向けた。真っ白な額縁に飾られているのは白黒の1枚の絵だった。ボスになりたての頃に挨拶へ行ったある町で少女から買ったもの。初心を忘れない為にいつもここに飾っていた。






「どうか、彼女達が幸せに生きていけますように」






祈るような気持ちで、そっと目を閉じた。







***

いやー、こうじゃない感があって時間がかかってしまいました……。バレンタインにアップする予定が大遅刻です。さり気ない空人くんの魅力を出したかったのに彷徨って迷子です。海人くんや夏希ちゃんとか身内でワイワイしている姿は思い浮かぶのですが、一般人と空人くんとの会話が難しかった……。
駄文失礼しました。

妊娠


ピピ、

「………、……」

時間を告げる携帯のタイマーが鳴る。見えないようにトイレの棚に置いた細いスティック状の白い物体。微かに震える手で、それを取った。その中心に丸く開けられた2箇所の窓。何度も読み込んだ説明書の通りならば、右側は検査が確実に行えたという証。そこにはブルーの縦線がしっかりと記されていた。反対は……。

「…………ぁ……」

濃いブルーの線が2本。

それが示す結果に、思わず息を呑んだ。そして、始めに浮かんだ言葉がどうしよう≠セったことに自分でも愕然とする。それは嬉しさや喜びからくるものではなく、不安と戸惑いだったからだ。これからのことを想像して、目をギュッと閉じた。不安からこみ上げてくる涙がポタポタと膝に落ちていく。

「……っ、」

(……ごめ、んなさい……)

素直に嬉しいって言えなくて、ごめんね。
自分の事ばかり考えて、ごめんね

「…………」

ようやく動けるようになったのは、日もどっぷりと暮れ、月が登った頃だった。





週末に入りやっと仕事が休みの日になった。普段年に一回がん検診でしか訪れない産婦人科の門を潜る。待合室にはお腹の大きい妊婦さんが幸せそうにエコー写真を見ていたり、妊婦雑誌を眺めていて……何だか急に場違いじゃないかと思い、俯く。

受付に保険証と診察券を提出し、代わりに番号札を受け取る。程なくして番号が呼ばれ、ガラリと戸を開いて診察室へ入った。素っ気ない態度の医師に内診室へ入るよう促され、隣の部屋へ入る。そこで下着を脱いでスカートの裾を捲り、内診台へ座った。看護師さんの明るい声で「台が上がりますよ」と告げられると同時にクルリと椅子が回転して上昇し、股を開くような形で停止する。これは診察だと思いながらも、羞恥心と恐怖でいっぱいになる。何度やってもこれに慣れることはないだろう。

「お名前は?」

「……あ、えと……つ、継峰夏希です」

「はい、継峰さんね。診察始めますよ」

ピンクのカーテン越しに先程の医師の声が聞こえた。緊張で言葉に詰まりながらも名前を言えば、夫以外触れたことのない場所へ無造作に器具を入れられる。

「っ、」

違和感と微かに感じる痛みを、ギュッと手を握って耐えた。怖々目を開ければ、こちらからも見えるようにと設置された小さなモニターに黒い扇状の映像が写し出される。医師がカチカチと機械をさわる音と陰部に挿入された器具を動かす度に映像が変わっていく。

「あ、うん。間違いないね。ちゃんと子宮内に妊娠してるよ」

「……、にんしん……」

「はい、じゃあ支度が終わったら隣の診察室ね」

映像を見ていても何がなんだかよく分からないまま診察が終わる。妊娠してるよ≠サの言葉だけがぐるぐると頭の中を回っていてどうやって内診台から降りて身支度を整えたのか記憶にないまま、気づけば診察が終わり手には小さな写真を渡されて指導室とかかれた部屋に通されていた。

「継峰さん?」

「え、あ……はい」

目の前の看護師さんが何やら説明してくれていたのに、ボーっとしていたせいで聞いていなかった。慌てる私に、小さく微笑んだ。

「妊娠おめでとう……でいいのかな」

「………っ…」

手を強く握り、俯く夏希。意思とは関係なくポタポタと流れる涙に気づくと、ティッシュを渡して肩をさすりながら、黙って落ち着くのを待つ看護師。

ゆっくりと口を開いた。

「さっきもらったエコー写真、持ってる?」

「っ、はい」

はがき半分くらいの大きさの白と黒のだけで写された紙。その中央の小さな黒い楕円を指差す。

「これがね、赤ちゃんがいるお部屋の胎嚢で、その中にある白いリングのようなものが卵黄嚢っていうのよ。継峰さんの最終月経とこの胎嚢の大きさからいうと、今は妊娠6週目に入ったところね」

「…………」

「……ここにはね、色々な事情を抱えた人が来るわ。だから、これは皆に言っていることよ。もし、赤ちゃんとさよならしなくちゃいけないとしたらなるべく早めに来てね。赤ちゃんの成長スピードはとても早い。21週までは中絶できるけど、12週以降は普通のお産のように出産することになるし、死産届や火葬、納骨も必要になる」

「……っ、」

「継峰さん、抱えているものがあるなら何でも相談してね。私じゃなくても、色々な相談機関もあるから後で受付からもらえるように言っておくわ。次の受診は2週間後になります。それまでに……ご家族ともよく話し合ってきてね」

「…………はい」

「もしそれまでに多量の出血があったり、つわりが酷くて飲食出来ないようなら連絡してね」

「分かりました」

バタン、とドアを閉める。
それからお会計を済ませて次回の予約表と一緒に資料
を一式渡された。

「次回は2週間後の同じ時間で大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫だと思います」

「気をつけてお帰り下さい」

産婦人科の入り口から出て車に乗り込み、ふぅと小さく息を吐いた。

「…………やっぱり、妊娠してたんだ…」

いつもと変わらない下腹部にそっと手をあてた。いつもは規則的にきている生理がこない以外には思い当たる症状もない。けれど妊娠検査薬での結果に加え、医師の診察でも貴女は妊娠してますよと言われれば、その通りなのだろう。

(…………っ、どうしよう……)

愛する人との子供ができたのに、ただ嬉しいと素直に言えない。父親である海人さんへの連絡も躊躇している私は、なんて酷い親だろう。

ギュッとハンドルを強く握り締め、エンジンをかけた。ポツポツと雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーを動かし、シフトレバーをDへ合わせる。

そう言えばあの日も雨だったなと思い出しながら、アクセルを踏んだ。





その日は、朝から大雨だった。

記録的豪雨になるかもしれないと繰り返しニュースで言っていた。兄からも気をつけるようにと連絡をもらい、返信してから就寝した。

空人さんが亡くなったと訃報が届いたのは、深夜1時だった。滅多にない海人さんからの夜中の電話に、嫌な予感がしたが実際に訃報を聞いて全身の力が抜けてその場に座り込んだ。最期を看取ったのは海人さん1人だったと言う。感情のない声で話す海人さんに、早朝仕事を休む連絡をしてすぐイタリアへ行くことを決めた。

近親者のみで行われた葬儀。喪主として立つ海人さんは、真っ白な顔で淡々とやることをこなしているようだった。泣いている人も、俯く人も、怒る人もいるなかで、ただただ……静かに見送っている海人さんがとても痛々しかったのを今でも覚えている。

葬儀も終わり、明日は日本へ帰る日。海人さんは諸々しなくてはならないことがまだあるらしく、暫くイタリアへ残ることになった。
就寝前に海人さんの部屋へ向かった。ノックをしても返答はなく、ドアノブに手をかければ鍵もかけられていない。ゆっくりとドアを開ければ、月明かりしかない真っ暗な部屋で、1人ベッドに腰掛けて座る海人さんがいた。聞いた話ではろくに食事も取らず、一睡もしていないらしい。今にも倒れてしまいそうな酷い顔色だった。

「…………海人さん」

「…………」

「……っ……」

「…………」

「海人さん、」

「…………なつき…」

何度か問えば、やっとこちらを向いた。かすれる声と虚ろな瞳。いつもは満月のように輝く金の瞳も今日はくすんで見えた。

「…………」

「…………」

痛々しい姿になんて声をかければいいか分からない。「大丈夫ですか」や「元気出して下さい」は違うと分かるけれど、まだ身内を亡くす経験のない私には傷ついた海人さんを癒せる言葉を知らない。それでもこのまま海人さんを1人にする選択肢なんてなくて、抱えるように頭をそっと抱きしめた。まるで外にいたかのような冷たい身体に泣きそうになる。少しでも温かくなれるように、ギュッと力を込めた。

それから、どれほど時間がたっただろうか。されるがままになっていた海人さんの肩が小さく震えた。

「……な……つき……」

「……はい」

「なつき」

「……はい、ここにいます」

絞り出すような、縋り付くような声色で何度も名前を呼ぶ。応えるようにそっと腕に力を込めれば、痛いほどの抱擁が返ってきた。そして、一瞬で背中には柔らかなベッド。見上げると海人さんの悲痛な瞳と視線が合う。

「……海人さん?」

「っ……なつき、」

「かいと、さ」

後先考えずただ感情のまま行為に至ったのは、後にも先にもこの時だけだった。

何度もお互いの名前を呼び、存在を確かめるように肌に触れて強く抱きしめた。いつもはお願いして出発前につけてもらう所有印も、場所を問わずいくつも紅の華を咲かせた。言葉を交わす暇もないほど接吻が続く。お互いの唾液が混ざり合い、溢れ出た愛液がシーツを汚した。堪えきれず出た声が枯れても、何度意識を飛ばしても、陽が差すまで行為は続いた。

誰に言われる訳でもなく、これは愛情や想いを交わすための穏やかな行為ではなかった。まるでそうしてないとここからいなくなってしまうかのような……そうすることでやっとお互いの存在を認識できているような不安や喪失感に駆り立てられた行為だった。それでも、今にも壊れてしまいそうな海人さんが、少しでも救われるならと願った。私自身、愛しい人の温もりで安堵した部分もある。

お互い力尽きて倒れるようにベッドに横になって眠った。その間も抱え込まれるように抱きしめられ、お互いの隙間が無いほどに肌を合わせた。朝日がカーテンの隙間から差し、部屋の中を満たす頃ようやく目を覚ました。

先に起きていた海人さんが用意してくれたカフェラテを飲みながら、ホット息をつくとポツリと隣の椅子に座る海人さんが呟く。

「……中学で……未来に行った時、空人がいたから少なくともあと数年は、大丈夫だと思ってたんだ」

「……」

「……なのに……っ」

堪えきれない感情が、蛇口をひねって出てくる水のように勢いよく出てくる。吐き出すように吐露される言葉の波。思わず手をとった。海人さんは苦笑して手を握り返すと言葉を続ける。

「……先月アレスが逝ったから、嫌な予感はしてた。けど、俺に残り≠渡さなければもう少し長く生きられたはずなんだ……っ」

ハッ、誰が……お前の思い描くように死んでやるか

「最期まで憎まれ口叩いて……」

いい面してんじゃん、おにーちゃん?

「……っ」

「海人さん……」

「ごめん、ごめん……っ」

何に対しての、誰に対しての謝罪なのか。

金の瞳から、いくつもの涙を零す。嗚咽を上げ子どものように泣く海人さんを抱き締めた。痛いほど海人さんの気持ちが伝わってくる。気づけば同じように涙が溢れ、こぼれ落ちた涙が海人さんの涙と混ざり、床へポタリと落ちた。




あれから、2ヶ月経つがまだ海人さんはイタリアから帰って来ていない。けれど、たまにする電話では段々といつもの声色に戻ってきた。それに来月にはまた旅を始めると一昨日聞いたばかり。少しずつ、いつもの海人さんに戻っていて、ホッとした。

「…………っ、おぇ」

堪えきれない吐き気と共に、空っぽの胃から胃液のみがトイレの便器へ落ちていく。
先週から悪阻が始まった。吐いても、吐いても終わること無く1日中車酔いしたような気持ち悪さが続き、食欲もない。味覚すら変化しているのか、普段好物なものでも見るのも嫌だった。水分すらまともに口に出来なくなり今日でもう3日だ。当然仕事も行けず、欠勤も続いている。

「……っ」

結局、あの後受診出来ずに今日まできてしまった。悪阻も始まり、腰や胸もちくちくするようになった。こんなにも身体は妊娠してるよと教えてくれているのに、まだこれからを考えられずにいる。体調不良を理由に向き合うことから逃げて、メソメソ泣いている弱い自分が嫌なのに……どうすることもできないまま、ただ日にちだけが過ぎていった。

ピンポーン、

「…………」

不意に鳴るインターフォン。出る元気すらなく、その場に座り込んだまま無視するが再び音が響く。

ピンポーン、

「…………」

(……だれ……だろう)

早く出なきゃと頭では分かっているものの、身体が動かない。悪阻や不安からか最近はあまり寝れなかったにもかからわず、自然と瞼が降りる。

ピンポーン、

(………ねむ…い)

次の瞬間には、トイレの床へ崩れるように横になった。





「…………ん……」

「おはよう、目が覚めたようだね」

「…………雲雀……さん?」

次に目を覚ました時には、そこは病院のベッドの上だった。ボーっとする頭で声のする方へ視線を向ければ、左手に繋がる点滴ボトルと、いつものように少し不機嫌そうな表情を浮かべた雲雀さんがいた。

「……ここは……」

「並盛病院。覚えてない?最近仕事休んでるようだし、ここ3日ほど家から出てないようだって君につけてる護衛から連絡が入ってね。海人からも風邪で体調が良くないって聞いてたから一応、行ってみたんだ。そうしたら君がトイレで倒れていた」

「…………」

「風邪……じゃないでしょ」

「……っ、」

「悪いとは思ったけど、保険証とか出すのにチェストを開けた。これ、産婦人科の予約票と一緒に妊婦向けの冊子も入ってたよ」

雲雀の言葉に、思わず目を反らした。

「……海人は知ってるの?」

「…………」

「そう、知らないんだ」

「……っ、お願いです!海人さんには……海人さんにはこのこと言わないで……下さい」

起き上がり、縋り付くように雲雀のスーツの裾を掴み懇願する夏希。

「…………」

「……海人さんは……っ今、子どもができることを望んで……ない、から」

「海人が?」

「……詳しいことは、分かりません。でも、海人さんの力と関係あることで……けど、いつか教えてくれるって約束……してくれました。だから、それまでは夫婦2人で過ごそうって私が言ったんです……っ海人さんが話してくれるまで待つって」

「……」

「それに、やっと……やっと空人さんの死から立ち上がったばかりなんです。に、妊娠した……なんて言ったら、海人さんを困らせる……」

「けど、事実君は海人の子を妊娠している」

「……っ」

雲雀の言葉に、俯く。ポロポロと涙が溢れ布団を汚した。そっと備え付けのティッシュを渡しながら、夏希に向かって問う。

「…………それじゃあ君はどうするつもりなの?」

「……わ……かりません……」

「……そう」

妊娠が分かったときから、ずっとぐるぐると頭の中から消えてくれない不安。まるで出口のない迷路に迷い込んだようだ。誰にも言えず、相談できないままここまできてしまった。

……心も身体も限界だった。







「継峰さん、診察ですよ」

「……はい」

雲雀さんと話した日から3日たった。悪阻は相変わらずだったが、点滴しているお陰で全体的な体調は自宅にいたときよりもいい。

「継峰夏希さん……ですね。妊娠悪阻で入院中……と。体重も大分減りましたし、ケトン体もまだ出てますので入院はもう少し続けて下さい。クリニックにはこちらから連絡してありますので、ご安心を」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、妊婦健診しちゃいましょう!今日心拍確認できれば、母子手帳をもらってこれますからね。これからお子さんが6歳まで使う大切なものになりますので、退院したら役所で手続きしてきて下さいね」

総合病院らしく、若くハキハキと話す医師だった。促されるまま、内診台へ座る。

「……はい、じゃあ診察しますよ」

「…………」

クリニックと同じように、真っ暗な画面がこちらに向けられていた。違和感と共に画面の映像が動く。

「……っ、ぁ」

「見えますか?赤ちゃんちゃんと大きくなってますよ。こっちが頭で……あ、動きましたね。元気なお子さんだ」

アハハと明るく笑う医師の声。
夏希は画面を食い入るように見つめた。数週間前に見たときは何がなんだかよく分からなかったエコー。今日は、医師に言われるよりも早く人の形をしているのに気づいた。器具を動かす度にひょこひょこ動く姿に胸が熱くなる。

「……あとは……うん、心拍も良好です。見えますか?このぴょこぴょこ動いてるのが赤ちゃんの心臓です」

ドクン、ドクン、

「……っ」

不意に画面から出る音声。ズームされた画面には点滅を繰り返す小さな丸。自身のものとは違いとても早くリズムを刻む心拍。自然と涙が溢れ出た。この子は生きてるんだと、誰に言われるでもなくストンと胸の中に落ちてきて温かな何かが広がった。

「…………っ」

(ああ……わたし、)

今まで抱えていた不安がなくなった訳では無い。海人さんへ伝える勇気も……まだ持ち合わせていない。けれど、この子に会いたいと強く思った。

診察が終わり自室に戻ってそっとお腹を撫でた。まだぺったんこなお腹だけど、この子はここで生きてくれている。大好きな人との愛しい子ども。

「……っ弱虫なお母さんでごめんね」

覚悟を決めるまでにこんなに時間がかかってしまった。きっとまた悩むこともある。けど、この子は……絶対に守ろうと心に誓った。

(……わたしの所に来てくれてありがとう)

想いが伝わるように、そっと瞳を閉じた。








***



色々と……すみません。やらかした感はあります。初めて妊娠が分かったときの夏希ちゃん目線で、産む覚悟が決まるまでのお話でした。私自身赤ちゃんの心拍を聞いたときの衝撃と感動は忘れられません。
海人くんはきっと夏希ちゃんに言われるよりも先に気づくんじゃないかな……。未来編の2人とは違う展開で一悶着ありそうではありますね。けど最後には皆で幸せになってくれたら嬉しいです。以前書いて頂いたお話のようにストーブ1つで慌てる海人くんがいたらいい(笑)
駄文失礼しました。








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