雛菊の蕾-14-(黄受)


※以前発刊した“雛菊の華”の前日譚です。
※あくまで前日譚なので、これ単体でも読めると思います。
※いわゆる遊郭物。黄瀬くんが不憫です。



高尾からの情報と、椿屋からの注文内容から一つの可能性を見いだし、緑間は椿屋へと文を送った。自らの素性と、大切な幼なじみを探しているということ。もしも心当たりがないのなら、このまま文を燃やしてくれて構わないと、はっきりと書いた。

そう経たずして、椿屋で遣り手を勤める黒子テツヤという男からの返信を、飛脚ではない、褐色の肌をした同い年くらいの少年が、朝一番に持ってきたのだ。そうして椿屋を訪れる約束を取り付け、今日に至る。

大きめに取られた窓を背にして、緑間は雛菊こと黄瀬と並んで座った。膳には、甘酒と簡単な食事が用意されている。たおやかな手付きで、黄瀬が緑間の酒杯へと甘酒を注いだ。

辺りから三味線の音や人々の声、拍手の音が聞こえてくる。緑間は、注がれた甘酒に口付けながら、うつむき加減のまま黙っている黄瀬をちらりと見やった。

彼が緑間の前から姿を消して、一年半程度。それまで毎日顔を合わせていた大切な幼なじみは、恐ろしいほど綺麗になっていた。着飾っているからではない、彼自身が美しく成長を遂げているのだ。同時に、村にいた頃にはなかった、妖しげな色香が彼の内側から確かに溢れている。

これが男に体を開いたからなのだとしたら、それはどうにも腹立たしいことだった。思わず、拳を強く握りしめる。

「どうして、都にいらっしゃるのですか?」

長い沈黙を経て、先に口を開いたのは黄瀬であった。相変わらず俯いたままで、声は微かに震えている。酒杯に注がれた甘酒を飲み干し、次を求めるように手を出す。黄瀬が、そっと酒を注ぐ。

「伯父の呉服店を継ぐためなのだよ。子供に恵まれないと嘆いていたから、オレが跡を継ぐことになった」

「そうなのですね」

「だが、そんなものは口実にすぎない」

注がれた甘酒に口を付け、唇を湿らせる。

「伯父と伯母には申し訳ないが、一番の目的はそれではない。オレは、幼なじみを探すためにここまで来たのだよ」

黄瀬の体が、びくりと揺れる。緑間は、まるで他人事のように続ける。

「ずっと探している。体を売らされているであろうことくらい、察しはついている。だから、花街を中心に情報を集めているのだよ。ここに来たのも、その一環だ」

「…どうして、そこまでして探すのですか?」

愛する故郷を捨ててまで、どうして身内でもない人間を探し続けることができるのだ。今にも消え入りそうな黄瀬の声に、緑間は深く息を吸い込んだ。

どうして。そんなの、理由なんて一つしかない。

「大切だからなのだよ」

自分でも驚くほどに、緑間は強くはっきりとそう告げた。

大切だから、それ以外に言葉などない。自分が生まれたときから一緒にいた相手だ。

優しい村の人々や、豊かな自然に見守られながら、どんなときも二人一緒だった。色とりどりの花が咲き乱れる原っぱを駆け回って、真夏の日差しを浴びながら冷たい川に入って魚を捕った。大人たちから近付いてはいけないと言われた山奥に入り込み、道に迷ったあげく、緑間が足を滑らせて急な斜面を滑り落ちてしまったなんてこともあった。秋も深まり夜は随分と冷え込む時分だったあのとき、足を挫いて動けなくなった緑間に自分の上着を掛け、黄瀬は一晩中山の中を駆け回って、ぼろぼろになりながら大人たちを呼んできてくれた。母親の体調が悪く、誰にも見られないようなところで一人泣き崩れている黄瀬を、緑間がずっと抱きしめ続けていたこともあった。

緑間にとって、黄瀬は「好き」だなんて言葉だけでは表しきれない大切な存在だ。どんなことがあっても、必ず自分が守るのだと、それが自分の仕事なのだと思っていた。

しかし、緑間は彼を守ることができなかった。彼は、母親の薬代を稼ぐためと言って、あっさりと見知らぬ男たちによって都へと連れて行かれ、そしてそのままいなくなってしまった。守るとどれほど思っても、まだまだ子供である緑間は悲しいほどに無力な存在だった。

だが、だからといって諦めることもできなかったのだ。どんなに無力であっても、黄瀬涼太という存在を守りたいという気持ちだけは、褪せることがなかった。

「それは、その幼なじみがどんなに汚れてしまっていても?」

緑間の言葉を聞いた黄瀬が、ぼそりとこぼすように問う。緑間が頷く。

「どんなことがあっても、オレはアイツが汚れているだなんて思わないのだよ」

たとえ何十人という男に体を開いていたとしても、彼を汚れているだなんて思うはずがない。緑間は、はっきりとそう言い切ることができる。

黄瀬が、力なく頭を左右に振った。

「違う…違うっスよ。体を売るって、そんなに簡単なことじゃないっス」

そ、と黄瀬の手が自らの手首へと触れる。洒落た布で覆われた手首には、昨夜の行為の痕がはっきりと残っている。青紫色の痕と、赤い擦り傷。だが、そんなのはあくまで表面的な物にすぎない。

「体を売るっていうことは…体の内側から汚れることと同義なんス」

手首に触れた指先に、力が籠もる。気持ち悪い、と黄瀬は思わず口に出していた。

触れられて、なぶられて、卑猥なことを言われて、言わされて、体の内側も外側も気持ちが悪いもので覆い尽くされる。自分の気持ちを裏切るように、体が好き勝手に暴走する。気持ちが悪い、気持ちが悪いと思う。しかし、それだけでないことも事実だ。

「気持ち悪いと思う…でも、それだけじゃないことも事実なんス。だって、気持ちいいって一度も思ったことがないって言ったら、それは嘘になる…嫌なのに、気持ちが悪いのに、確かに快感も感じてしまっている」

気付けば、ぽたぽたと黄瀬の膝の上に涙がこぼれ落ちていた。それを押さえ込むように、黄瀬が両手で顔を覆う。震える肩に緑間が触れようと手を伸ばすが、やはりそれを拒絶される。隣にいるというのに、黄瀬は一人きりで泣きながら吐き出すように続ける。

「気持ち悪い、オレ、気持ち悪くて最低なんス…でも、でも…オレ、もう…」

それでしか、生きることができない。

その言葉を聞いた瞬間、緑間は黄瀬の拒絶も抵抗も何もかもを忘れて、黄瀬の体を強く抱きしめた。肩と背に腕を回し、顔を覆う腕ごと自分の胸に黄瀬を押しつける。

いきなりのことに呆けた黄瀬だったが、すぐに今の状態に気付き、体を捩って逃れようと暴れ始める。「嫌だ」「離して」「汚れちゃうから」と泣き叫ぶが、緑間はそれを無理矢理押さえ込んだまま腕の中に捕らえ続ける。

「それでしか生きることができない、ではない。それでも、生きてきた」

泣き叫ぶ黄瀬に負けまいと、緑間もまた声を張り上げる。黄瀬が、ぴたりと抵抗を止める。

「それでも、オマエは必死で生きてきたのだよ。辛くて、悲しくて、自分の身も心も嫌いになって、それでもここまで生きてきた。そんな風に必死で生きている人間を、気持ち悪いなんて絶対に言わないのだよ」

抵抗が止んだ黄瀬の体を抱く力を、緑間もまた少しばかり緩める。美しい金色の髪を撫でながら、形のいい耳元に唇を寄せ、「黄瀬」と囁く。

「生きていてくれて、ありがとう。ずっと、会いたかったのだよ」

「…緑間っち」

黄瀬が、緑間の名を呼ぶ。彼特有の、懐かしいあだ名で呼ぶ。先まで抵抗していた黄瀬の腕が、縋るように緑間の胸元をつかみ、涙で濡れた琥珀の瞳が緑間を見上げた。

「オレ…こんなに、汚れて…でも、お母さん、助けられなかった…」

「黄瀬」

「お母さん、死んじゃった…オレ、何もできなかった」

「違う!オマエは何も悪くない、オマエのせいではないのだよ」

「でも、オレ、全部なくなっちゃった…もう、何もない…オレ、もう何もないよ…」

そう言って再び泣き始めた黄瀬を、緑間はやはり抱きしめることしかできない。ただ、「大丈夫」「オマエのせいではない」と囁いてやることしかできない。そうして囁く緑間の声もまた、涙に濡れていく。

泣きじゃくる黄瀬の背をなだめるように撫でながら、緑間もまた静かに泣く。黄瀬の涙で濡れる胸元が、どんどん苦しさへと変わっていく。ようやく見つけた。探し求めた大切で愛しい存在をようやく見つけることができた。しかし、まだまだ無力な緑間には、その背を抱きながら一緒に泣いてやることしかできなかった。

華やかな三味線や人々の笑い声に包まれる街の一角で、二人はただひたすらに抱き合ったまま涙を流し続けていた。

意識が戻ったとき、緑間は黄瀬を抱きしめた体勢のまま畳に転がっていた。遠くで、夜明けを告げる鐘が鳴っている。あのまま、泣き疲れて二人揃って眠ってしまったのだろう、体中が痛い。しかし、それ以上に目元がひりひりとする。

ゆっくりと起き上がり、窓の外を見る。まるで、夕方のような朝焼けだった。

「もう、朝っスか?」

ざり、という衣擦れの音と共に黄瀬が身を起こす。まだ眠気が残っているのか、手の甲で目元を擦っている。ちらちらと見える目と目元は真っ赤に染まっている。

「目元が真っ赤なのだよ」

「…緑間っちだって、ウサギさんみたいっスよ。メガネの痕もついちゃってる」

穏やかに笑いながら、黄瀬の手がそっと緑間の目元に触れる。ぴり、とした小さな痛みに思わず眉間に皺を寄せると、それを見た黄瀬が更に笑った。何だかそれが面白くなく、昔からよく伸びるとからかっていた頬をつまみ上げる。「いひゃい」と黄瀬が言葉になっていたい悲鳴を上げた。

「ちょっと、緑間っちやめてほしいっス!引っ張られすぎて伸び切っちゃったらどうするんスか!」

「知らんのだよ。伸びきらないように鍛えればいいだろう」

「ほっぺたってどうやって鍛えるんスか?!」

「それくらい自分で調べるのだよ。いい本屋なら教えてやる」

「意地悪!緑間っちのそういう意地悪なところ本当に変わってない!成長してない!」

「黄瀬こそ、そうやってすぐに騒ぐところは変わっていないのだよ」

静かな朝の空気の中で、二人揃って子供じみた応酬を繰り広げる。真っ赤な目元同士が互いを睨み付け、むむっと口を引き結んでいる。

しかしそれもつかの間のことで、すぐにどちらからともなくくすりと笑い出した。打って変わった、けたけたと楽しげな笑い声が響く。

久しぶりの、以前と変わりないやり取りだ。こんな子供のようなやり取りをしたのはいつぶりだろう、と緑間はメガネを押し上げながら考える。

「ねえ、緑間っち」

黄瀬が緑間を呼ぶ。顔を向けると、黄瀬が実に穏やかな顔で緑間を見つめていた。

「緑間っち、探しに来てくれてありがとう」

「黄瀬」

「オレも、本当はずっと会いたかった」

黄瀬の脳裏に、黒子の言葉が過ぎる。彼は言った。自分を受け入れてくれる人を、自分が大切にしなくてはならない。その通りだ。緑間は黄瀬のことを大切な存在だと言ったが、黄瀬にとっても緑間は大切な存在だ。それこそ、好きだとかそんな言葉では表せない、掛け替えのない存在だ。

畳の上を這うようにして、緑間へと近付く。そっと身を寄せると、緑間が答えるように抱きしめてくれた。

人々が動く気配が徐々に強くなる。二人は、穏やかな声の黒子が呼びにくるまで、ただただ抱きしめあっていた。








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