雛菊の蕾-12-(黄受)


※以前発刊した“雛菊の華”の前日譚です。
※あくまで前日譚なので、これ単体でも読めると思います。
※いわゆる遊郭物。黄瀬くんが不憫です。



地平線から太陽が姿を現し始め、数瞬、夜よりも更に深い闇に街は包まれる。次第に温かな光が広がり、人々は新しい朝が来たことを知る。それは、重い体を布団に投げ出し、浅く忙しない呼吸を繰り返す黄瀬も同じだ。じきに大門が開く。そうなれば、今窓辺に座り行為の余韻に浸っている目の前の客との時間も終わりだ。

「いい朝だな、雛菊」

昨夜の客であった男が、眉間に皺を寄せるような独特の笑みを浮かべながら、黄瀬が横たわる布団へと近付く。裏花街時代からの客である男は、体液がこびりついた黄瀬の太股を幾度か撫でると、うっすらと割れた腹筋へと手を伸ばし、再びそこを撫でる。こそばゆい感覚に、黄瀬が小さく声を上げる。

「こんないい朝だ、もう一回抱きたくなる」

男の手が、黄瀬の顎を掴む。ほとんど閉じられていた薄い瞼が開き、甘い琥珀の瞳に自らが映るのを嬉しそうに見ながら、昨夜艶っぽい声を響かせていた唇に噛みつくように口付ける。黄瀬が構う間もないほど、下を引っ張り出しきつく吸い上げる。朝から与えられる鮮烈な快感に、黄瀬は思わず布団をきつく握りしめた。

「失礼いたします、お時間です」

男の口が離れ、次いで両胸にあるほのかに赤い突起へと指が動いたとき、襖越しに遣り手の黒子の声が響いた。「お帰りの支度を」と淡々と告げる声に向かって、男はいらだちを滲ませながら返す。

「おい、今いいところなんだ。追加料金なら払うから続けさせろ」

「申し訳ございませんが、お受けしかねます。もう、夜は明けました」

早くお帰りを、と今度は黒子がいらだちを僅かに含ませる。男は、仕方がない、と存外素直に黄瀬から離れ、乱雑に放っていた衣服を身につける。

「やっぱり、オマエが一番だな、雛菊」

帰り際、襖を開けながら男が黄瀬へと言う。

「こっちの世界に戻ってきてくれて嬉しいよ。また、抱いてやるからな」

そんな台詞を残し、男は部屋を去っていた。入れ替わるように、黒子と紫原が入室してくる。ぐったりとしている黄瀬へと近付き、意識があることを確認しながら、黒子は手早く紫原に持たせていた桶から、湯に浸った手拭いを出し、汚された体を拭い始めた。

黄瀬、否雛菊が客に体を売るようになって、一月程度。赤司や黒子、他数名の遊女たちとも話し合い、「張見世には出さない」「基本的には座敷に上げない」「個別の依頼にのみ応じる」等の規則を設け、できる限り店の奥深くに隠しながら仕事をさせている。それでも、既に雛菊を指名する客は後を絶たない状態になっていた。

雛菊の客が噂を聞きつけやってきて、彼を思う存分抱き、そしてまた噂を広める。その繰り返しだ。夜毎、黄瀬は男たちに体を開き、奥の奥まで犯し尽くされている。黄瀬が、毎夜傷つけられている。

しかし、それに比例するかのように、一時期増えていた、遊女に違法な薬を使おうとしたり、抱き潰さんばかりの危険な抱き方をする客たちが姿を消した。何とも歯がゆい事実だ。

温かな湯を纏った手拭いが肌を滑る感覚に、黄瀬が黒子の腕の中で身動ぎをする。ほう、と柔らかな息が吐き出された。

「黄瀬君、大丈夫ですか?」

黒子が問えば、黄瀬はこくりと頷いてみせる。

「大丈夫っス」

「妙な薬は使われていませんね?痛いところとか、傷ができたところはないですか?」

いつでも落ち着いている黒子には珍しく、矢継ぎ早な質問だ。いつもそうだ。客を取った後、彼を清めつつ体の様子を見るのは、黒子の仕事になっている。傷は、痛みは、辛いところはないか、気持ち悪くはないか、等愛おしげに撫でるように体を清めながら問うていく。

そんな黒子に、黄瀬はふんわりと微笑んだ。

「大丈夫っスよ、黒子っち。今日は縛られたりも叩かれたりもしなかったから」

心配してくれありがとう、と黄瀬は自らを清める黒子の手にそっと手を重ねた。

多少の時を経て、黄瀬は椿屋の面々に随分と心を開くようになった。笑いもするし、名前の最後に「っち」をつけるという独特なあだ名で相手を呼ぶこともある。畏まった口調もなくなり、随分砕けた調子で話しかけてもくれる。

本来であれば、何より嬉しいことのはずだ。だが、純粋に喜ぶには障害が多すぎる。

一通り体を清め、清潔な白い着流しへと着替えさせると、黒子は紫原に黄瀬を自室へ運ぶよう指示をする。素直に頷いた紫原は、慣れたように黄瀬の体を抱き抱えた。浮遊感に驚き、黄瀬は紫原の首へと腕を回す。

「二人とも、別に運んでくれなくても大丈夫っスよ。歩くことくらいできるっス」

「だめです、君はすぐに無理をするでしょう」

ぴしゃり、と黒子が返す。

「そんな子の言うことは信じられません。素直に運ばれてください」

「うわあ、オレ、信用ないんスね」

「信用されたいなら、無理せず素直ないい子でいることですよ」

変わらずぴしゃりとするどい言い回しの黒子に、黄瀬がぼそりと「何だか緑間っちみたい」と言うのが聞こえた。

まだ青臭い臭いの残る部屋を早々に出て、桶を小脇に抱えた黒子の後に紫原が続く。黄瀬の仕事部屋は三階の一番奥まったところにあり、私室としてあてがわれた部屋は、同じく三階のそれよりもう少し手前にある。階段近くを通ると、二階から人々が静かに動く気配が感じられた。夜を楽しんだ客たちが帰って行くようだ。

今日もまた、椿屋の夜が無事に終わったらしい。

部屋へと入ると、中央に布団が一式綺麗に敷かれていた。掛け布団をどかし、その上に紫原がそっと黄瀬を下ろす。再び掛け布団をかけ、黒子が寝かしつけるように黄瀬の頭を撫でた。

「少し眠ってから湯浴みにしましょう。時間になったら呼びに来ます」

それまではゆっくりしていなさい、と言い残し、黒子は紫原と共に部屋を後にしようと立ち上がる。

しかし、くい、と何かに引っ張られ、残念ながら立ち上がることはかなわなかった。不思議に引っ張られた袖のあたりを見ると、黄瀬が黒子の袖を親指と人差し指で申し訳程度に掴んでいた。

「黄瀬君?」

「あのね、黒子っち。何か、眠れそうにないっス」

黄瀬がおずおずと言う。

「疲れてるんスけど、眠くないっていうか…」

「そうは言っても、眠らないと辛いのは黄瀬君ですからね」

言いながら、黒子は体の向きを変えて黄瀬の枕元にそっと腰を下ろした。再び黄瀬の頭を撫でながら、意識的に柔らかく微笑んでやる。

「それでは、少しだけ話でもしましょうか。体の力を抜いてゆっくりとしていれば、次第に眠気もやってくるでしょう」

「ありがとう、黒子っち。やっぱり、緑間っちみたい」

ふふふ、と黄瀬が笑う。さっきも聞こえてきた「緑間っち」という名前に、黒子が素直に小首を傾げる。

「緑間っち、とは誰のことですか?」

「緑間っちはね、オレの幼なじみなんス」

黒子のことを見やすいように体を横向きに直し、黄瀬はやはり楽しそうに話し出す。

「同い年の村の幼なじみ。村にいたときはいつでも一緒にいて、村の人たちからは兄弟みたいだねって言われてたんス」

「その緑間っち君の方がお兄さん役だったんでしょうね」

「でもオレの方が誕生日はちょっとだけ早かったんスよ!」

むう、と黄瀬が頬を膨らせる。

「まあ、確かに緑間っちの方がお兄ちゃんみたいだったけど。真面目で堅物で、オレに向かっていっつも、だからオマエはだめなのだよって厳しいこと言うんスよ。本当に口うるさかったんス」

「きっと、黄瀬君のことが大切だからですね」

「…うん、そうだったんだと思う」

過去を思い出しているのか、黄瀬の目がそっと細められる。

「厳しくて恐かったけど、すごく優しかった。オレが辛いときはいつでも支えてくれたし、お父さんがお母さんを都の病院に連れて行って夜一人になっちゃったときも、一緒に寝てやるって家に来てくれた。いつもは早寝早起きだって言うのに、不安で眠れないんだって言ったら、なら眠くなるまで話をしていようって一緒に起きててくれたりして」

徐々に黄瀬の声が小さくなっていく。心なしか震えているようにも聞こえ、黒子は無意識に黄瀬の目元に指を這わせた。湿ってはいなかったが、琥珀の瞳はなみなみと水を溜めている。そのまま頬を優しく撫でると、すり寄るように黄瀬からも頬を押しつけてきた。

「会いたいですか?」

黒子が問いかける。

「その幼なじみに、会いたいですか?」

黄瀬は、十二分に間を空けてから、そっと首を左右に振った。

「…会いたい、けど、会えない…会えないっス…」

会うことが怖い。

そう呟くように言った黄瀬は、そのままはらはらと涙を溢れさせた。止める気配も止まる気配もなく、静かに柔らかな頬を滴が伝う。黒子は、何を言うこともできず、ただ静かに泣き続ける黄瀬を落ち着けるように、布団の上から細い体を撫でていた。

気の高ぶりを体の疲れが上回ったのだろう、そう経たずして黄瀬は両目を閉じ、深い眠りへと入っていった。しっかりと眠ったことを確認し、今度こそ黒子は腰を上げる。

さて仕事を始めよう、と部屋を出ると、床には先ほど部屋を出ていったはずの紫原が、長い足を折り畳んで座り込んでいた。

「一刻ほどしたら起こしてあげましょう。湯浴みと朝食は、彼の好きな順番でいいでしょう」

指示を出しながら、紫原と共に階段を下っていく。下りながら、黒子は先の黄瀬の話を思い出す。

「それにしても、緑間と言えば…」

黄瀬の言っていた幼なじみの名前に引っかかっていた。緑間といえば、椿屋が古くから贔屓にしている翠屋呉服店の主人たちの名前だ。あまり聞かない名前に、一度そのことを話題にしてみたことがあったが、彼等自身、親族以外で同じ名前に出会ったことはないと言っていた。

緑間夫妻は都でもおしどり夫婦で有名だが、残念ながら子供には恵まれず、今でも二人きりであったはずだ。だとしたら、件のその親族の中の誰かが、黄瀬の言う幼なじみなのだろうか。

「黄瀬ちん、最近嬉しそうだよね」

黒子の思考を遮るように、背後から紫原が声をかける。いつもの間延びしたようなものとは違う、どこか硬質な響きの声だ。

「どういうことですか?」

「そんまんま。黒ちんだって思ってるでしょ。黄瀬ちん、毎日嬉しそう」

夜毎、ともすれば昼間から欲にまみれた男たちに犯され続けているというのに、紫原には、最近の黄瀬が毎日嬉しそうに見えるのだ。辛そうで、苦しそうで、体も心も疲弊しているだろうに、それでも嬉しくて仕方がないと言っているように見える。

そして、黒子もそれは同じであった。否、おそらく黒子と紫原だけでなく、時折顔を出す赤司や、清宮等遊女たちもそう感じていることだろう。

「ねえ、黒ちん。これが、生きる理由を見つけたってことなの?」

二人の脳裏に赤司の言葉が過ぎる。赤司は、黄瀬が生きるためには、現状これしかないのだと言っていた。男に体を開き、金を稼ぐ。厄介な客を引き受けることで、他の遊女たちを守る。それを、自身が生きる理由にする。

今の黄瀬は、赤司の言っていたとおり、自らが生きる理由を見つけたということなのだろう。故に、どんなに辛く苦しくとも、嬉しそうに見えてしまうのだ。余りにも惨いことだ。しかし、これ以外の方法で黄瀬に笑顔を取り戻してやることが、店の誰にもできなかったのも事実だった。

「黒ちん、オレはやっぱりこんなの間違ってると思うよ」

紫原が言う。

「こんなの、本当の幸せじゃない。どんなに嬉しそうにしてても、黄瀬ちんは絶対に幸せじゃない。こんなの最低だ。黄瀬ちんを酷く扱う客も、これを許しちゃう赤ちんも黒ちんも、皆皆最低だ!」

まだまだ子供である紫原の言葉が、深く大人の黒子に突き刺さる。真っ直ぐすぎるからこそ、痛い言葉だと思った。言い返す気なんてない。確かに最低だ、と黒子はただ心の内で紫原の言葉に頷いた。

「よお、おはようお二人さん」

二人が一階へと降りたちょうどそのとき、一人の少年が閉じられている店の扉を開けてひょっこり顔を覗かせた。青峰大輝。褐色の肌に海を思わせる青い髪が特徴の彼は、向川遊郭の飛脚を勤めている。花水木という大門横にある恋文請負業を営む店の一人息子であり、その実彼の本業もまた恋文請負業であるはずなのだが、曰く、彼は字はとにかく上手いものの、恋文を書くことに関しては壊滅的に才能がないらしい。

彼に恋文を書かせる練習をさせたい父親と、それから全力で逃げて回る息子という青峰親子のやりとりは、向川遊郭の名物の一つと言っても過言ではないかもしれない。

「青峰君、随分と早いですね。どうかしたんですか?」

引き戸を開けて、普段ならばあり得ない早朝にやってきた彼を迎え入れる。見れば、彼の手には一通の手紙が握られている。

「いや、一通届けそびれてたみたいでさ。親父にばれて朝から大目玉」

「なるほど。右頬が腫れているのは雷を落とされたからというわけですね」

あえて触れないでおいてやろうかと思っていた腫れた右頬を指摘すると、青峰が苦笑しながら左頬を掻いた。大目玉ついでに思い切り殴られたに違いない。青峰親子にはよくあることだ。

「まあ、この件に関してはオレが完全に悪いからな。飛脚やってるくせに届け忘れるとか情けねえし。っつうわけで、これ。遅くなってすみませんした」

青峰の手から一通の手紙を受け取る。神経質そうな角張った字で書かれた差出人の名前を見るや否や、黒子は両目を開いて固まってしまった。

そこには、間違いなく「緑間真太郎」と書かれている。

「黒ちん、どうかしたの?」

何やら様子のおかしい黒子の顔を紫原が横から覗き込むが、黒子はそれに反応することなく急いで手紙を開封した。中から取り出した、これまた神経質そうな文字で綴られた手紙を読み、更に驚愕の表情を浮かべる。

「おい、黒子?」

紫原に続き、青峰も心配そうに黒子へ声をかける。黒子は、手紙を丁寧に畳み封筒に戻すと、真っ直ぐに青峰を見つめた。

「青峰君、お願いがあります。今から返事を書くので、すぐにこの手紙を翠屋呉服店へ届けてください」

黒子らしからぬ余裕のない姿に、青峰は理由を尋ねることさえ忘れて、ただ一言「わかった」とだけ返した。








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