僕にはボクについて納得できることを持っていない。
客観的情報として納得できることはたくさんある。性別、外見、血液型、誕生日、戸籍、挙げていこうにも限りがないほどに。それでも、心からそれらに納得できるかと問われれば、答えは否。不満というわけではないのだが、ただただ実感が持てない。


例えば、自分の呼び方。それっぽく言うと、一人称、というやつだ。それがいまいち納得できない。私、あたし、僕、俺、全て自分のことを指すはずなのに、どれもが自分と切り離されている何かにしか思えなくなる。私が自分のことを私と言うだけで、その一人称が持つイメージに自分が左右されてしまう気がしてしまう。
女性なのにオレ、と言うと粗野で常識知らずなイメージ。男性なのにあたし、と言うと繊細で女装癖があるイメージ。偏見だらけなのは理解しているが、それでも持たざるをえない手垢塗れのイメージ。こんな風に、一人称というのはそれだけで何かしらの固有イメージを孕んでいる。それに個の自分が左右されてしまうのは耐え難い。だから、私はボクについて納得できる人称を持っていない。

たかが一人称で揺らいでしまう、あたしの自分性。
僕が僕でいることは、誰が証明してくれるだろう。
自分自身? 自分が自分を認めるべきなのか? 自分でも理解しがたい物を、どうやって。
自分がそこにいるだけで、僕は僕、私は私、それで納得できる人はとても幸せだ。あいにくと、甘ったれなことに、ボクには主体性と言う物が欠けている。

「将来の夢は?」
「なんだろうね」「訊かれても困るよ」
「行きたい場所は?」
「どこでも良いよ」「君の好きなところで」
「あなたが生きている意味ってなあに?」
「さあね」「今すぐ死んだって構わないのかもしれない」

風に弄ばれる木の葉よりも薄っぺらなアタシ自身。
認める、だなんて難しいこと。どうやって行うのだろう。手段はどこに落ちているのだろう。

「ボクは私を許すよ」
「あたしが自分を認めてあげる」


こうして言葉で紡げば良いのだろうか。けったいな書類でも書き残せば良いのだろうか。
ああ、違うだろう。そんなに単純で無味乾燥なものじゃないんだろう、認めるということは。私が私であると言うことは。

ふわり、ふわりと夢散する、ボクらしいワタシ。
泣きたくなるくらい先が見えない、確固たる自分へと続く道。
そうだ、ねえ、ああ、いっそ、
あなたのもとで、わたしはわたしになろうか。
そうだね、それがきっと、一番楽だね、そして虚しい。

そうして僕はあなたになった。
こうして私は君になった。
それだけだよ、それで終わり。
無理やり始まって、こじつけで終わる“自分”。
映し鏡としての人生は、何も残らなかった。