【意念を開発する】

  気の訓練の最初の取り組みは「意守法」なのだが、この意守法とは何か、どういう訓練法なのかをりかいしておかなければならないだろう。
  気功を習い始めた頃の先生達の表現は、
「意念を向けて意守する」
という感じであった。
  つまり、「丹田に意念を向けて意守しましょう」という具合だ。
  僕は長い間この「意念」の意味を理解できないでいた。
  「意識」と「意念」の違いを明確に出来ていなかったのだ。
 だから、「「意守丹田」という場合に、丹田を意識する」という具合に考えていたのである。
  この「意念」とは何を指し、如何にすれば身につけられるのか、自分の意思で意念を自由に使いこなせるようになるのかという点について考えてみよう。

  まず意識と意念の違いである。
  これをわかりやすくするために、脳の働きを陰陽的に二つの側面から考えてみる。
  一つは外部の情報を得るために働いている機能で、もう一つは内部の情報を得る働きだ。
  これを視覚や聴覚などの、いわゆる五感と運動感覚や内部感覚などの体性感覚として理解する。
  もう一つの理解として、脳の活動状態を表す言葉としてのα波やβ波をも一緒に考えてみる。
  まず、五感を用いて外部の情報を得ようとしたり、それに基づいて思考したりしている場合、脳は活動的に働き、脳波はβ波を指している。
  しかし、練功を積んだ人が気功をしている時は脳波はα波になっていると言う。
  ということは、五感やそれに用いている脳は働かせていないということになるのだが、では、そうする(そうなる)ためにはどうすれば良いのか。

 そこに出て来るのが体性感覚なのだ。
  しかし、私たちは普段、体性感覚を意思をもって体感することはない。
  脳の側から体感しにいくということはしていないのだ。
  どういうことか。
  私たちが歩いている時、脳から歩くのに必要な筋肉に指令を出して筋肉を収縮させている。
  しかし、それだけではない。
  出した指令通りに足が動いているかどうかという情報を脳に贈り、その正確さを確かめながら歩いているのだ。
  だから、階段の昇降も、その段の高さに応じた足の運びが出来るのである。
  しかし、よほど危険な道でない限り、私たちは意思で確認しながら歩いてはいない。
  だから、体性感覚を体感する経験が少ないのだ。
  しかし、この体性感覚に意思を持っていくことによって外部に向けられていた脳の働きは抑制され、脳波はα波になるのだ。
  そして、意守丹田などという訳のわからない作業ではなく、体の動きを体感することは、実際に動いているのだから容易に体感できる。
  そして脳波はβ波からα波に移行していくのだ。
  この取り組みを実践化したものが「体感しながらのスワイショウ」や「すわり金魚」などの「ふぁんそんテクニック」であり、この「意守動き」とも言うべき取り組みが、意念を開発していく最初の取り組みなのである。