鬼豪のよくわからない馴れ初め
西の空に夕陽が溶けるように沈んでいく。
練習を終えたサッカー部の面々は夕焼けを浴びながら帰路に就きはじめた。
それは、豪炎寺が雷門中に転入しサッカー部に入部してから変わることない、いつもの光景だった。
ただ目の前の状況だけは、豪炎寺にとって、不思議な心地ではあった。
向かいにはゴーグルの少年。
自分と彼の間には、雷門中のフォーメーションの図案が書かれたノート。
それらを交互に見て、軽く息を漏らす。
確かにチームに誘ったのは豪炎寺自身だ。
実際に彼がチームに加入してみても、新鮮さと頼もしさの入り交じる奇妙な感覚は、なかなか悪いものではなかった。
初対面の記憶と比べてみると、想像もつかない変化だと言えるだろう。
豪炎寺は、まだ見慣れない青色のマントと、糊のきいた真新しい制服をちらりと見て、口角を小さく上げた。
「それで、作戦なんだが……」
鬼道がノートに何か書き加えようとしたその時、部室の戸が開いた。
「忘れ物っス〜」
その声と共に壁山が部室にどたどたと駆け込んできた。
「お前もか」
それを見て、鬼道は苦笑を浮かべた。
おそらく、教室に教科書を取りに戻った円堂のことを思い出したのだろう。
振り返ると、壁山はロッカーからスパイクの入った袋を取り出していた。
「言いかけた作戦のことだが」
その声に向き直ると、鬼道がノートに再びペンを走らせていた。
天才ゲームメーカーと呼ばれている鬼道の考える新しい戦略。豪炎寺は期待を胸に、ノートを覗き込んだその時――。
衝撃と共に、ごつ、と鈍い音がした。
「あっ、す、すみませんっスー!大丈夫っスか!?」
帰ろうと振り返った壁山が持っていた、スパイクの入った袋が豪炎寺の後頭部に当たったのだ。
「……軽くぶつかっただけだ」
平謝りする壁山を、豪炎寺はどこか視線を泳がせながらなだめる。
確かに軽くぶつかっただけなのだ。
壁山が謝りながら部室を出て、戸を閉める。
そうだ、軽くぶつかっただけなのだ。
スパイクの袋が後頭部にぶつかった。
その勢いで目の前の鬼道に軽くぶつかった。それだけだ。
ぶつかった箇所が柔らかかった気がしたが鬼道も黙っているからきっと気のせいだ。
そう思って豪炎寺は話の続きを聞こうと、鬼道に続きを促した。
鬼道は続きを話す前に不機嫌そうに手の甲で唇を拭った。
豪炎寺は、息を飲んだ。
気のせいではなく、そこにぶつかったのだ。
淡々と戦略を提案する鬼道の言葉を聞きながら、胸の奥に苦いものが込み上げてくるのを感じた。
戦略の打ち合わせが一段落したところで、苦いものをごまかすように言葉を絞り出す。
「さっきは……悪かったな」
「お前が気にすることじゃない、ただの事故だ」
鬼道は言葉ではそう言うが、先程の仕草は全くだと言わんばかりだった。
確かにあれは事故だ。俺は悪くない。
もちろん鬼道も悪くないし、だからと言って壁山を責めるつもりもない。
それが逆になんとも言えない嫌な気持ちのやり場をなくしてしまう。
「円堂、遅いな」
鬼道がそう呟く。
他意はないのかもしれない。作戦会議にキャプテンである円堂が不在というのは気にしない方がおかしい。
しかし先程の仕草を思い出すと、二人でいるのが気まずいから早く円堂が戻ってこないだろうか、という希望にも取れる。
やり場のない嫌な気持ちがどろどろと溢れ出す。
「……先に帰る、円堂に伝えておいてくれ」
豪炎寺は鞄をやや乱暴に掴み、席を立った。
嫌な気持ちを抱えているのは自分だけではないのに、嫌な気持ちを隠そうとしていないように見える鬼道をこれ以上見たくなかったのだ。
円堂には悪いが作戦会議は明日の昼休みにでもいいだろう。
「待て」
鬼道も立ち上がり豪炎寺の腕を掴んだ。
いきなり帰ると言い出したことに怒ったのだろうか。ゴーグル越しではその表情は窺えなかった。
少しでも表情を読み取ろうと、引き結ばれた口元を見つめる。
だがそれは、豪炎寺が予想していたよりも遥かに柔らかく開かれた。
「お前は嫌じゃなかったのか」
鬼道が何を言っているのか豪炎寺が理解するのに数秒を要した。
「何の話だ?」
「そのままの話だ」
そのままの話ということは、先程の“事故で軽くぶつかった話”だろう。
「どうしてそう思った」
「見たままの感想だ」
豪炎寺はどう返答していいかわからなかった。
その時はまず驚きが来て、嫌とか嫌じゃないと考える前に鬼道が嫌悪感を露にしたのだ。
しかしそれを見て、確かに嫌な気持ちにはなった。
「……お前は嫌だったんだろう」
豪炎寺はどう説明していいか分からず、とりあえず分かっていることを口にした。
「確かに俺は嫌だった」
「……」
分かっていたことが反芻されただけなのにどうしてこんな嫌な気持ちになったのだろう。そこまで考えたところで捕まれた腕を強く引き寄せられた。
事故ではなく、故意に唇同士が触れた。
何故だか嫌な気持ちはしなかった。
豪炎寺が事態を飲み込む前に鬼道が言い放った。
「あんな事故じゃなく、ちゃんとしたものがしたかったからな」
顔の距離が近いせいで、少しだけゴーグル越しに鬼道の瞳が見えた。
まっすぐに豪炎寺を見つめる瞳は想像以上に優しかった。
「お前は嫌じゃなかったか」
投げ掛けられた質問は先程とほとんど変わらないものだった。
だが豪炎寺には、その意味が全く異なって聞こえた。
言いかけた返事は、部室の戸を開けた円堂の声にかき消されてしまった。
end