兄の部屋は暗く、静まり返っていた。
無理もない。Wが帰宅し、この部屋を訪れたのは日付が変わってからいくらか時間が経っていた。
「なんだよ、もう寝てんのか」
当の本人はこのような時間の帰宅が当たり前になっているせいで、それが普通とは気づいていない。
と言っても、W自身この家に戻ってくるのは5日ぶりであった。
極東チャンピオンという表の顔を利用し、裏でナンバーズを集めるのが、この家でWに与えられた仕事だった。
極東チャンピオンとナンバーズを集める者の二つの顔は昼も夜も関係なくWを突き動かす。
手に入れたナンバーズと、新たなナンバーズの情報を報告しようと、疲労をおして兄の部屋を訪れたというのに、とんだ拍子抜けであった。
ろくに連絡を入れないWにも非があるといえばあるのだが。
兄は一人用にはやや広いベッドに眠っていた。
ベッドの大きさや普段の態度に似合わず長身を丸めて胎児のような姿勢で眠る兄にWは苦笑いを浮かべた。
昔からこのような寝相だっただろうか。
思い返そうとしたが、浮かぶのは末弟と自分で兄を挟んで眠った記憶ばかりだ。
兄の腰よりも伸びた銀髪がシーツの上に無造作に散らばっていた。
Wは髪を踏まないよう、そっとベッドに腰を下ろし、その一房を手のひらで掬いあげる。
この髪に触れるのは何年ぶりだろうか。
小さい頃はよく、この髪に触れていた。喧嘩をすれば髪を引っ張り、甘えたいときは毛先をくすぐり、構ってほしいときはわざと髪を掻き乱したりもした。
下手くそな三つ編みを拵えたりも何度もしたものだった。
兄はそれを厭いもせず、笑みを浮かべ褒めてくれた。
お世辞にも綺麗とは言えない三つ編みを、せっかく作ってくれたのだからとそのままに一日を過ごしていた。
端正で整えられた兄の姿で、その三つ編みだけが不格好であったが、兄がその三つ編みを喜んでくれたことを幼いながらに誇らしく感じたことを覚えている。
手のひらを傾けると、さらさらと髪が滑り落ちる。
特にこの行動に意味はない。兄を起こそうか、このまま寝てしまおうかを考えているだけだ。
眠気が思考を邪魔して考えがまとまらないのだ。
髪を長く伸ばした経験のないWからすると、女性でもないのにここまで髪を伸ばすということ自体考えられないし、ここまで長いものを髪と認識するのも困難でもあった。
掬っては傾けを何度か繰り返していると、兄の体がもぞもぞと動いた。
「……何をしている」
こちらには背を向けたままではあったが、この冷たい声は紛れもなくいつもの兄だった。
「わりーわりー」
勝手に寝台に腰を下ろし髪を触られるのはいい気はしないのだろう。
兄とは仲が良いとは言えないWであったがそれくらいは理解していた。
「何をしているかと聞いている」
対して兄のこの言葉は理解を示そうともしていないのだろう。
勝手に寝台に腰を下ろし髪に触れることに理解を示せと言うのも難しい話だ。
Wもそれをすぐに理解した。
「報告に来たらもう寝てたからよ、どうしようかと考えたんだよ」
だから言い訳もせず、ありのままを答えた。
ただひとつ、昔を懐かしんでいたということのみを伏せて。
「考え事をしながら人の髪を触るな」
ごもっとも。
Wは声に出さずに呟いた。
今の兄とは歩み寄ることも寄り添うことも互いにないのだとWは理解していた。
言い争いはすることもあるし仲も良いとは言えないが、嫌いあっている訳ではない。
ただ、そういう関係に変わってしまっただけだ。
寂しいとは思わなかった。
「明日も仕事があるのだろう。報告は明日の朝でいい、早く休んだらどうだ」
これもきっと気遣いではなく事務的な言葉なのだろう。
好きだった兄は、幼い頃とは変わってしまった。
兄と同様に変わってしまった自覚のあるWにはそれを責められなかった。
Wはベッドから立ち上がり、あくびをひとつした。
正直、本当は報告なんて後回しにしたいくらい眠たいので兄の言葉は有難かった。
「はいはい、ご忠告ありがとよ、オニイサマ」
ただ、なんとなく、眠気とは別の影のある気持ちが滲み出したのだ。
紛らわすためか八つ当たりか、気まぐれに散らばる髪に指を差し込みくしゃくしゃと掻き混ぜた。乱れた銀髪が渦を作る。
「W」
ベッドの上で背を向けたままの兄が振り返る。
また小言が飛んでくる。Wは待ち構えた。面倒になれば部屋を立ち去ればいい。
だが、兄の口からでたのは小言ではなく微かな笑みであった。
「変わらんな、お前は」
最低限の言葉しか発さなかったから確証は持てない。兄は覚えていたのだろうか。Wの合図を。
Wは、立ち去るつもりで上げた腰を再びベッドに下ろした。
指先で兄の髪をなぞる。毛先をシーツに押し付けるように指の腹でくすぐる。
これは言わば、ただの実験だ。兄が覚えていたかどうかを試しているだけだ。
心の中でWは自分にそう言い訳をしていた。
なのにいやに心臓が高鳴る。疲れのせいだろうか。ああ、そうだ。そうに違いない。今回の仕事は長く、5日も続いたのだ。
昼間は表の仕事、夜は裏の仕事、ろくに休めずデュエルに、調査に、ナンバーズ集めに明け暮れていた。
その疲れが、どっと襲ってきたに違いない。そう思うと一気に眠気が襲ってきた。
指先でくすぐる毛先に別の髪の房が重なる。
そこでWの意識は途切れたが、最後に誰かに抱き留められたような感触があったのを覚えている。
END
2012-6-20 03:29