「おはよう、タージ」
笑いかける主君の顔が憂いを帯び始めたのはいつのことだっただろう。
「おはようございます、陛下」
「……朝食に行こうか」
心なしか、挨拶を返すと一層憂いが濃くなるように見える。
常にシャムスの傍らに控えてるはずの自分が、その理由すら思い当たらない。その憂いの理由を一人で胸に秘めているシャムスの心中を考えると、タージは自分の無力さを目の当たりにし、唇を噛んだ。
タージは何度シャムスに理由を尋ねようかと思案した。
だが理由を打ち明けてくれないのは、知られたくないからだとしたら。無理に聞けば、辛い思いをさせてしまうのかもしれない。
タージは言葉を飲み込んで、食堂へ向かうシャムスの傍を歩いた。
「おや、シャムス。またそんなに」
朝食の席で、香辛料を料理に大量に振りかけるシャムスを見て、彼の祖母であるファルタは苦笑を浮かべた。言葉は咎めているものの、その語調は穏やかなものであった。
「まったく誰に似たんだろうな」
同じく祖父であるマスルールも笑った。マスルールもファルタも、シャムスの周囲の人間は、薄味を好んでいるのだ。少なくとも、シャムス以外の人間はそう記憶している。
「……誰でしょうね」
シャムスは言葉は明るい調子を装ったが、わずかに言葉を詰まらせ、視線を逸らしていたのをタージは見逃さなかった。
朝食を終えると、シャムスはマスルールに向き合い口を開いた。
「マスルール様、僕はフィルヴェーク団に加わります」
「しかし、シャムス。何度も言うが、お前は我がサルサビル王国の王なのだぞ」
シャムスは協会と戦うために国を離れてフィルヴェーク団に加わりたい。
マスルールらは国王であるシャムスが国を離れるのをよく思わない。
ここ数日、何度も議論された内容だ。
「すでに事態はサルサビル王国だけの問題ではありません」
「しかし軍の力は我らとフィルヴェーク団で十分に協会と拮抗しておるだろう」
どちらも一歩も引かないが形勢は、同意する者がいないシャムスが不利だと言えた。
タージはシャムスの味方ではあったが、この場で意見を述べられる立場ではないのを弁えていた。
「彼らは……協会は、いつ我々の思いも寄らない非道な暴挙に出るか分かりません!」
シャムスの瞳には、燃えるような強い意志が光っていた。
年相応の少年のような衝動と、民の上に立つものとしての威厳の間でシャムスは激しく揺れていた。
マスルールにもその揺れは伝わっていたのだろう。結局、マスルールにいつものように窘められ、シャムスは自室に戻った。
「どうしたら、マスルール様に分かってもらえるだろう」
自室に戻ったシャムスは、椅子に深く腰を下ろし項垂れた。
「僕はみんなを守りたいんだ」
こぼれる言葉は一国の王とは思えないほどに弱々しい。
「わかっております。しかし、サルサビル王国の国王である陛下が国を離れることを、マスルール様が不安に思うのも仕方のないことです」
タージは落ち込む主君を窘めるが、その言葉はシャムスを更に追いつめるだけだった。
「陛下じゃ、ないんだ」
シャムスは、消え入りそうな声でつぶやいた。
一瞬にして光の中に消えた祖国。
その皇帝であった父と、后妃であった母。サルサビル王国の国王ではなく、ジャナム魔導帝国の皇太子だった自分。
百万の民と自分達の生活、日常、記憶。
その事実を覚えてる人間は自分しかいないのだ。
(リズラン様は、何故僕にこんな……)
シャムスに書と共にこの記憶を託したリズランに思いを馳せる。
シャムスの母のクレイアは、彼女を陰険な魔女と忌み嫌っていた。シャムス自身も、クレイアほどではないにしろ、リズランには良い感情を抱いてはいなかった。
リズランが、書の記憶を引き出すために、妹のマナリルを幽閉し、衰弱するまでその能力を使わせていたからだ。リズランにとってマナリルは娘であるというのに。
しかし、最後に見たリズランは、母の言う陰険な魔女ではなく、シャムスが見てきた帝国魔導院の長でもなく、母親の顔をしていた。
そして、マナリルを頼むと、そうシャムスに告げたのだ。
(そうだ、マナリル……)
シャムスは思い出した。
遠い土地で協会と戦う妹、彼女を守るためにも諦めてはいけないのだ。
俯いた顔を上げて、噛みしめるように呟く。
「僕はやらなくちゃいけない。誰一人、分かってくれないかもしれない。それでも、一人でも、僕は」
「独りではございません」
その言葉を遮ったのはタージだった。
「陛下の決めた道ならば僕も付き従うと決めております」
シャムスへ一歩近づき、その場に跪く。
「僕は陛下のことを、ただの従者として以上に、お慕い申し上げております」
「タージ……君は、今」
突然のことにシャムスの言葉は震えた。彼は今、何と言ったか。
シャムスの戸惑いをよそに、タージは恭しく頭を下げる。
「申し訳ありません。許しを得たからといって、軽々しく口にするつもりはなかったのですが」
「……許し、とは?」
シャムスが呆然と呟くと、タージは顔を上げ、首を傾げた。
「陛下……お忘れですか?」
忘れるはずが無い。
むしろ、忘れられていると思ったのだ。
目を閉じると、消えてしまった太子宮の自室が瞼の裏に浮かんだ。
それは、帝国でシャムスが初めてまつりごとに関わった日のことだった。
自分の無力さを思い知ったシャムスにタージがくれた言葉。その言葉も、帝国と共に光に消えてしまったとばかり思っていた。
「なかったことになさりたいのでしたら、それでも構いません。ですが僕は」
「違うよ」
通りのいい声がタージの言葉を遮る。タージはわずかに目を見開いた。
「違うんだ、覚えててくれて嬉しいよ。僕も同じ気持ちだ」
シャムスは目を細めて、タージの髪を指ですくように撫でた。指の間を滑る感覚に懐かしさを覚える。
「忘れるはずがありません」
タージは髪を撫でるシャムスの手を取り、その甲に口付けた。
「ありがとう、タージ。もう少しマスルール様を説得してみるよ」
シャムスは椅子から立ち上がると、目を閉じて一度大きく呼吸をした。
「みんなを不安にさせるのは申し訳ないと思っているけど、それでも僕はフィルヴェーク団と共に協会と戦うと決めたんだ」
言葉は穏やかだが、その瞳には一人の少年としてでも、サルサビル王国の国王としてでもない、兄として、皇太子としての決意が宿っていた。
「わかりました。僕は陛下の決めた道について参ります」
シャムスは小さく、ありがとう、と呟くとマスルールの書斎へ向かった。
微笑むシャムスの顔から少しだけ憂いが晴れたことに、タージは安堵の息を漏らした。
END