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「昨日、久しぶりに学校へ行きました」
 十二月。鳥乃は再び点の家を訪れていた。相変わらずうす暗いリビングで、前と同じテーブルに向き合って座って、やはり甘いココアを飲んでいる。点の呟きに、鳥乃はココアを一口すすって、ちらりと彼を見た。点は続けた。
「鳥乃と話をしたら、行ってみたくなったんです。何かが変わる気がして」
「変化はあった?」
「特にないです。クラスの何人かが僕を忘れていたくらいでした」
 ココアをまた一口すすって、鳥乃は「ふうん」と呟いた。人間の記憶力なんてそんなもんか、と思った。
「鳥乃、きいてもいいですか」
 しばらく黙り込んだ後、点が問うた。鳥乃が「うん」と答えると、点は少し迷うように目線を泳がせてから、口を開いた。
「鳥乃が学校へ行かない理由は何ですか」
 鳥乃は点をじっと見た。点は困ったような顔をしながらも、目を逸らそうとはしなかった。鳥乃は小さく首をかしげた。
「靴下を履くのがいやだから」
「靴下?」
「あれはとても窮屈で気分がわるいから」
 鳥乃の答えに、点はしばらくきょとんとした後、力が抜けたように笑った。
「たしかに窮屈ですね」
 鳥乃は笑っている点を見ながら、彼が今にも泣き出しそうだと思った。

 鳥乃と点は、週に一度は会ってココアを飲んだ。約束をして会ったことは一度もないのに、二人が出会ったあの川で、何度も顔を合わせた。
 お互いを特別な存在として見ない相手のそばで、鳥乃と点は今まで出会ってきた誰よりも落ち着くことができた。いつの間にか点は、鳥乃に敬語を使うことをやめた。鳥乃は会うたび、点の頭をぐしゃぐしゃになで回すようになった。鳥乃は点を、犬かなにかだと思っているのではないかと、点は思っていた。そしてその予感は当たっている。
「ねえ鳥乃、春になったらお花見に行こうよ」
 点は比較的よく笑うようになったが、どこかぎこちないその笑顔は、彼が普段笑うことはないと素直に教える。そして鳥乃が点の前で笑顔を浮かべることは一度もなく、点は、美しい花でも見れば、鳥乃が笑ってくれるような気がしていた。
「お花見かあ」
「嫌かな」
「初めてだなあ、と思って」
「お花見したことがないの?」
 点はものすごく驚いた顔をした。鳥乃はその顔に驚いた。
「そうか。鳥乃の初めてのお花見の瞬間に、僕がとなりにいるんだね」
「うれしいの」
「素敵なことだと思う」
 点は本当に嬉しそうに笑った。けれどその年、ふたりがお花見をすることはなかった。点の家の近所に、桜が一本も咲いていなかったからだ。家の裏の川以上に遠出することは、ふたりとも望んでいなかった。

 いつの間にか年が明けて、冬も終わり、あっという間に春を通り越して夏が来た。衣替えの季節になり、点も冬服から夏服に替えた。けれど鳥乃は冬服だった。寒がりなのかと思っていたが、七月も中盤に入り、蝉が鳴き始めても、鳥乃は夏服を着ようとしなかった。さすがにおかしく思った点は、いつものようにココアを飲みながら鳥乃にきいた。数週間前から、ココアもホットからアイスに変わっている。
「鳥乃、暑くないの」
「暑い」
「夏服は?」
「きらい」
「せめて袖をまくればいいのに」
 点の何気ない言葉に、鳥乃はココアを飲むのをやめて、じっと点を見つめた。鳥乃は目つきが良いほうではないので、見つめられるというより、睨まれているような気分になって、点は少し怖くなる。鳥乃は点を見たまま、汗をかいているコップの表面をかりかりとこすった。コップの中で、氷がからんころんと涼しげな音を立てた。
「点なら、大丈夫かなあ…」
 鳥乃は呟いた。そして点が答える前に、鳥乃はゆっくりと、まずは右手の袖を肘までまくって、それと同じ速度で左手の袖もまくった。いつも冬服を着ている鳥乃の肌は、怖いほどに白かった。その腕には包帯が不器用に巻きつけられているのだが、どこからどこまでが腕で包帯なのかよく見なければ分からない。点は本能的にぞくりとした。細い手首の、隠された包帯の下には、鳥乃が普段見せることのない、激しい感情が隠れているような気がした。



 



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