1



 鳥乃は自転車をこいだ。行き先を決めず、ただひたすら川ぞいに上流を目指した。唐突に嫌になったからだ。近所を流れる川の濁った見た目や、においや、そこを泳ぐ犬などが嫌になった。もっときれいな川で泳ぐ犬が見たいと思った。だから彼女は自転車をこいだ。
 普段あまり運動をしない鳥乃にとって、一時間も自転車をこぎ続けられたことは奇跡に近かった。そうして今まで見てきた川の中でいちばんきれいだと思う川にたどり着いた時、鳥乃の制服は汗でぐしゃぐしゃになっていた。
 自転車を停めて河原におりた。川の水は濁っていなかったし、鼻をつくようないやなにおいもしなかったので嬉しくなった。かかとを踏んでいたスニーカーを脱いで、足を水に付けると、ぞくりとするほど冷たかった。それでも何だか楽しくて、鳥乃は両足を膝まで水につけた。
「ふん、ふふ」
 歌を歌いたいと思ったのでその通りにした。勢いよく流れる水の音や、枯れた木の葉のこすれる音を聞いているうちに自然と頭に浮かんだ曲を、そのまま口ずさんだ。
「ららら…」
「なんていう歌ですか?」
 夢中で歌っていた鳥乃は、いつの間にか誰かが隣に座っていることに気付かなかった。なので突然話しかけられた時、鳥乃は驚いて川に落ちそうになった。振り向くと一人の少年がいた。背が低く、見た目は幼い。小学生くらいだろうか。ぼさぼさに痛んだ栗色の髪の毛が彼を暗く見せたが、よく見ればその奥の顔立ちは怖いほどに整っている。白い肌の中で赤い唇だけがぽつりと色づくのを見て、まるで人形のようだと鳥乃は思った。まだ少しどきどきしていたので、鳥乃は少年を少しの間じいっと見つめてから、思いついた題名を適当に呟く。
「川はきもちいいなあ、っていう歌」
「誰の歌?」
「わたしの」
「あなたが作ったんですか」
 少年は驚いた顔をして、興奮したように少し鳥乃に近づいた。鳥乃はこっそりと正確にその分だけ横へよけた。人と接することには慣れていない。
「わたしは鳥乃です」
「トリノ。僕はテンです。点数の点です」
 少年に言われ、自分も漢字を説明したいと思ったが、いい例えが思いつかなかったので、鳥乃は地面に漢字を書いた。点と名乗った少年は、何が楽しいのか、となりで嬉しそうに「鳥乃、鳥乃」と繰り返していた。
「歌が好きなんですか」
 問われて、鳥乃は考えた。自分は歌が好きなんだろうか。思うと暇さえあれば歌っている。歌を歌うのは気持ちいい。
「好きだなあ」
「僕もです」
 鳥乃の返答に、点はすぐさまそう返した。
「歌が好きなんです」
 眉を八の時に下げて笑う点は、困った子犬のようだった。ああ、犬だ。鳥乃は思い出す。自分が見たかったのは、きれいな川で泳ぐ犬だ。思い出した鳥乃は、こちらを見ている点の目をじっと見つめた。
「点は泳げる?」
「え、泳ぎはちょっと」
 点は突然の質問に少し戸惑って、困ったように首元に手をやった。病人のように白い首だ。鳥乃はがっかりして、点を見るのをやめた。もう一度川の方を向いて、水中の足をふらふらと動かす。
「寒くないですか?」
「とても寒くて冷たい」
 今は十一月だ。鳥乃の答えに、点は何かを考えるような顔をした。それを横目でちらりと見ながら、鳥乃はやっぱり、点が犬に似ていると思った。
「鳥乃、よければうちにきませんか」
 唐突に点が言った。鳥乃は首をかしげた。
「なぜ?」
「鳥乃は寒そうで、うちは温かくて、飲み物もあります」
 少し震え始めていた鳥乃にとって、温かいという言葉は魅力的だった。それに飲み物。鳥乃は今、まさしく喉がからからに渇いている。あんなに自転車をこいだからだ。そんな鳥乃が「行く」という答えを出すのに時間はかからなかった。

「鳥乃は、学校へ行かないんですか」
 玄関の扉を開けながら、点がきいた。平日の朝に川で歌を歌っている、高校の制服姿の女に対して抱くのにはごく自然な疑問だった。
「今日はきれいな川を見たいと思ったから途中で道を変えたの」
「そんなふうによく休むんですか」
「休みたいときは休むし、行きたいときは行く」
「ふうん」
 点は小さく相づちを打った後、また何かを考えるような表情を見せた。扉が開くと、点は鳥乃にどうぞとスリッパを出した。鳥乃はそれを断り、裸足で上がった。それを見て、点もスリッパを脱いだ。彼の家の中は確かにとても温かかった。

「点は小学生?」
 案内されたリビングで向かい合ってテーブルについて、鳥乃は思ったことをきいた。点の身長は低く、百六十センチの鳥乃よりも十センチほど小さかった。
「中学生です」
「髪の色で怒られないの」
 点の栗色の髪は、日に当たると白色にも見える。鳥乃の問いかけに、点は自分の前髪を持ち上げて、それを上目に見つめながら答えた。
「学校には行ってないから」
「そうか」
 鳥乃が簡単な返事をすると、点はなぜか少し嬉しそうな顔をした。それからふいに立ち上がって、「コーヒー、飲みますか」と尋ねた。
「コーヒーは苦いから苦手」
 鳥乃が言うと、点は「僕もです」と笑って、ココアの粉を棚から出した。
「僕もコーヒーと、あと、人も苦手なんです。でもなんだか鳥乃はちがう。とてもきれいな歌を歌っていたからかなあ」
 あたたかなココアを準備しながら、点は鳥乃の歌を思い出すように目をつむった。睫が頬に影を落とす様がきれいだと思った。
「わたしも人と喋ること、あまりないよ」
 鳥乃が答えると、点は「おんなじですね」と笑った。そんな風に顔をくしゃりとして笑うと、点の口端からは白い八重歯がのぞいた。

 ココアを飲み終えて、いくつかの話をして、いつの間にか日も暮れた。お互い何の情報交換もせずに別れたが、鳥乃は、いつかまたすぐに会う気がした。それから鳥乃は、来た道をまっすぐに帰った。家についたのは、時計の針が十一時を回ってからだった。
 熱いシャワーを浴びながら、鳥乃はふと点について考えた。あれ、何かに似ていると思ったんだけど、何だったっけ。点は何に似ているんだっけ。
 そうだ、柴犬だ。彼は柴犬に似ているのだ。あの栗色の髪、小柄な身体は、まさしく柴犬だ。鳥乃は嬉しくなって鏡を見た。曇ったガラスの向こうでは、長い黒髪を纏った無表情の女がつったってこちらを見ていた。鳥乃が顔をしかめると、女も顔をしかめた。その女の足下を見て初めて、鳥乃は自分がまだスニーカーを脱いでいなかったことを思い出し、急いでスニーカーを脱いだ。お気に入りの赤いスニーカーは、すでに濡れてぐちゃぐちゃになっていて、鳥乃は少し悲しくなった。






-エムブロ-