ヒゲを剃れ



 だから言ったんだ。ヒゲはちゃんと毎日剃れって。なのに水田は俺の説教を聞きながら、気だるげに両足を組んだままハイハイなんて適当な返事して鼻をほじってた。よく見ればきちんと洗ったのかも分からない髪の毛しやがって。ていうか服、昨日と同じじゃないのか。もしかして風呂、入ってないのかよ?このズボラが。そりゃ、車に轢かれもするよな。目の前で道路に飛び出した子どもを助けようとして水田だけがケガをしたって、それはお前が悪いよな。もう知るか。病院でひとり淋しく野垂れ死ね。
「山谷ってリンゴの皮を剥くの上手いよな」
 なんだかんだで気付いたら水田のためにリンゴを剥いている俺は、水田よりよっぽどバカだった。ベッドの上で上半身を起こそうとした彼を片手でやんわりと抑える。
「痛むだろ」
「平気だって」
 なおも起き上がろうとする水田をバカ寝てろと押し返す。水田は少し不満げな顔をしたが、元気そうに見せてはいてもやはりまだ全快ではないらしく、すぐに折れて頭を枕に埋めた。俺は黙々とリンゴを剥き続ける。皮を剥くのが上手いだと?誰のせいだよ。このやろう。心の中で悪態をつく。ふと、暇を持てあました水田がハミングを始めた。歌かどうかも分からないくらい下手くそなハミングだった。思わず吹き出す前になんとかリンゴが剥き終わったので、小さく切ったそれを水田の口に押し込んで歌を邪魔した。
「美味い?」
「キムチが食べたい…」
「アホか。当分お預けだ」
「退院したら、山谷の作ったキムチが食べたい」
「退院できてから言え」
 くだらない会話をしながら、水田の咥内にどんどんリンゴを入れていく。文句も言わず、水田は入れたら入れた分だけ食べる。おもちゃみたいで面白い。機械的にリンゴを咀嚼する水田の顎。上下に揺れ動く顎。ヒゲの生えた顎。もぐもぐ。動き続ける水田の顎にそっと触れた。目が合う。もぐもぐもぐもぐ。なんだか照れくさくなって、リンゴの皮を片付けるふりして逃げようとしたら腕を掴まれた。無言で俺を見つめ続けていた水田がつぶやく。
「キス」
「は?」
「キスしたい」
「俺は山谷ですが」
 ちんぷんかんぷんな返答をした俺を水田は鼻で笑った。
「山谷、キスしたい。しよ」
「いいよ」
 特に拒む理由もないので望む通りにしてやった。軽く済ませるつもりが後ろ髪を掴まれて引き寄せられたらケガ人相手に本気の抵抗も出来ず、それが何秒間なのか数え切れなくなる程度には同じ姿勢で固まっていた。息苦しさからやっと開放されて、ヒゲが当たって痛かったと文句を言えば水田は、あーじゃあ今度は剃っとくわ、と言いながら鼻をほじったのだった。



090402



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