骨と鱗



 午前十時、アパートの窓から見える公園の桜がぽつぽつと咲いていた。本棚を物色して読みかけの本を一冊抜き出し、文(フミ)はぶらりと外に出る。今日は強い風もなく、公園で読書をするには絶好の日和だ。けれど文が公園についたとき、ひとつしかないベンチにはすでに先客が座っていた。それを見て踵を返しかけたが、ふと、桜を見上げながら煙草をふかしているのが下の部屋の住人であることに気付く。
「何してるんですか、矢島(ヤジマ)さん」
 長い間同じ姿勢を続けていたのか、矢島はぎこちない動きで振り向き、自分に声をかけたのが文だと分かるとへらりと笑った。
「桜が綺麗に咲いてるなーと思って」
「似合わないですよ、花と矢島さん」
 文の言葉を気にする様子もなく、矢島は少し右によけて、ベンチの空いたスペースをぽんぽんと叩く。「まあ座れ」
 煙草のにおいが嫌いな文が顔をしかめると、矢島は急いで煙草の火をもみ消した。文が隣に座ると、ほっとしたようにしゃべり出す。
「この間の日曜日にさあ、海が見たくなって適当に自転車こいだんだけど、変な工場みたいなとこにたどり着いて。すげーくさくて最悪だった」
「それは行き方が悪かったんですよ」
「いいなあ…、海」
 矢島はまるでそこに海があるかのように目を細め、うっとりとした表情で遠くを見つめた。
「行けばいいじゃないですか」
「一緒に行く?」
「いやです」
 冷静に返しながら本のページをめくる文の手を、矢島がつかんだ。落ち着いて本も読めない。
「文ほっそいなー。骨とあと、何で出来てるんだ?皮?」
 文は呆れたようにその手を振りほどく。
「海なら、場所を調べてひとりで行ってくださいね」
「そうか、文は海アレルギーか」
「矢島さんと行くのがいやなだけです」
「文はかわいいなあ」
「死んでください」
「そんなこと言って。俺が死んだら後悔するぞ」
「そりゃあね」
「えっ、後悔してくれるの?」
「たぶん泣きます」
「そうかあ。悲しませちゃってごめんな」
「一週間もたてばさっぱり忘れるので問題はないです」
「む…」
 小さな子どものように頬を膨らませた矢島がまた桜を見上げるのをちらりと一瞥して、彼が半袖一枚であることに今さら気付いた。いくら冬が終わって暖かくなってきたとはいっても、まだ三月だ。ばかじゃないかと思いながら文は本を閉じた。
「矢島さん、寒くないんですか」
「ああ、ちょっと寒いかも」
 言いながら矢島の手がポケットに伸びる。そこにいつも煙草が入っていることを知っている文は、矢島の手をつかんでそれを阻止した。
「半袖で外をうろうろしないでください。見ているほうが寒いです。あと煙草はやめてくださいって、僕、前にも言いましたよね」
 不機嫌な顔をする文とは逆に、矢島の顔がふにゃりとゆるむ。
「心配してくれんの?」
 顔をのぞきこまれて、文はつかんでいた手をあわてて離した。
「僕が迷惑なだけです」
 文の反応を楽しむように、矢島はくすくすと笑う。
「でもさあ、死ぬって言われてもやめらんないくらい好きなものがある人生ってすごくねえ?」
「それが煙草でなければ、素敵なんじゃないですか」
 文の言うとおりだ、と言いながら矢島は煙草を取り出し火を付けた。ばかやろうめ、もう知るか、文は立ち上がろうとしたが、矢島の手が文の服の端をつまんでいる。
「もう行っちゃうの?」
 そう問いかけてくる矢島が妙に幼く見えて、文は変な気分になった。この人は本当に自分よりいくつも年上の大人なのか。
「煙草消してくださいよ」
「俺、文が大好きだけど、煙草も同じくらい好きだし、野菜もすげー好きなんだ。どうしたらいいんだろう」
「僕の好きなものは本と料理で、苦手なのが犬と煙草です。よって矢島さんも苦手です」
「俺ってそんなに犬っぽい?」
「た・ば・こ!」
 ムッとする文の頭を乱暴に撫で、矢島は「おもしろいなあ」と言って笑った。それを聞きながら文は、あんたの方がよっぽどおもしろい、と思ったけれど口には出さなかった。僕が骨なら、あんたは鱗だ。なんとなく。
「今よりもっと綺麗に桜が咲いたら」
 ふいに矢島がつぶやいた。
「教えてやるから、お花見しよう」
 風がふいて、桜の花びらが何枚か散った。それを捕まえようと、矢島は文の返事も待たずにあわててベンチを立った。先客のいなくなったベンチを独占しながら文は空を仰ぐ。桜に向かってかまえる矢島が、すっかり春の色をした空気に包み込まれて揺れていた。



090329



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