トランス



 長年かけて降り積もった憂鬱がついに爆発して、連絡も入れずに会社を休んだ。布団の中で仰向けに寝ころんだまま、天井をぼうっと見つめる。この不況でいつリストラされてもおかしくない時代に、とんだばかやろうだ。あのシミは誰かに似ている。
 他に何をする気にもなれなかったので電気を消して両手で顔をおおった。時計は午後の一時を差している。泣いてみたら少しはすっきりするだろうかと思ったが、からだはそんなに上手くコントロールできるものでもなかった。もう一度眠ろうと目をつむったところで、大きなノックの音がした。一年ほど前にチャイムが壊れたのだけれど直すのもめんどうでそのままにしている。
「おーい、漁(スナドリ)」
 叩かれ続けるドアを無視していると、聞き慣れない男の声に名前を呼ばれた。
「開けてくれ。今すぐ開けてくれ」
 どうにもせっぱ詰まった声だったので、しかたなくもぞもぞと布団を這い出た。扉を開けるなりずかずかと上がり込んできた長身の男の顔にはやはり見覚えがない。驚いてちょっと待てと腕を掴むと、男は「漏れそうなんだ」と悲痛な声を上げた。「トイレを貸してくれ!」

 数分も待てば、男は非常にすっきりした顔をしてトイレから出てきた。さっきよりだいぶ顔色がいい。警戒して毛布にくるまっている俺に、にこにこしながら近づいてくる。
「いやー、漁、変わってないな。相変わらず死にそうな顔してる」
 どうやら男は俺を知っている人物のようだが、いくら考えても思い出せない。長い黒髪にもヒゲにも声にも、まったくと言っていいほど覚えがなかった。
「…誰だ?」
 ぶっきらぼうに尋ねると、男は欧米人のように大げさに驚いてみせ、俺の背中をばしんと叩いた。「いてぇっ」
「薄情な男だ。同級生の顔も忘れたのか」
「同級生?」
 オウム返しに尋ねると、男はため息をひとつついた。
「小学一年生のとき、俺は漁の学校に転入した。一ヶ月でまた転校したけどな」
「それだけ?」
「十分だろ」
「覚えてるわけがない…」
「俺はよく覚えてるぞ。あんたはいつも青ざめた顔で本を読んでた。ひどい猫背。変わった名字だから、ポストの表札を見てまさかと思ったんだ。顔を見て確信したよ。あんたは漁平次(ヘイジ)だ」
 名前は当たっていた。俺は黙りこくる。
「今だから言うが、俺はあんたが好きだった」
「え…」
 身を寄せられてぞくりと身体が強ばった。そんな俺を男はケタケタと笑いとばす。
「冗談だよ。おもしろいだろうが。ところで非常に腹がすいてるんだが何か食べるものはないか」
 男は言うなりキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。あわてて後を追いかける。
「勝手にあさるな」
「あさるほど中身もない」
 賞味期限が三週間ほど切れた牛乳パックを片手に、男が振り向く。冷蔵庫の中身はそれだけだった。
「あんた本当に死ぬぞ」
 男が言う。関係ないだろ。お前に何が分かるんだ。唇が震えた。じっと睨み付けたけど、男は平気な顔をして慣れた手つきでパックを開封した。直接口を付けてパックを傾ける。賞味期限の切れた中身が、男の咥内に入り、咽を通って、胃に流れ込んでいく。しばらくそれをぼうっと見ていた俺は、すごい勢いで動く男の咽を十秒以上眺めてからやっとハッとした。
「なにやってんだっ」
「言っただろ。腹がすいているんだ」
「だからってそんなもの飲んだら腹をこわすだろう!バカか!」
 思わず声をあらげて、男の手から牛乳を奪い取る。男は口の端に付いた牛乳を袖でぬぐい取りながら、にやりと笑った。
「大きな声も出せるじゃないか」
 今わかった。こいつは頭がおかしい。俺はついにぶち切れた。
「さっさと吐き出せ!」
 ひときわ大きな声を出す。男はきょとんとした顔で俺を見た。
「どうやって?」
「咽に指でもつっこめ!」
「そんなこと出来るのか」
 興味深そうな顔でさっそく試そうとする男の手をあわてて掴む。
「ここでやるなっ!」
 半ばうんざりしながら、俺は男をもう一度トイレに押し込んだ。

「飲めよ」
 しばらくしてトイレから出てきた男に、水の入ったコップを手渡す。水道水だが期限の切れた牛乳よりはましだろう。
「あんた面倒見がいいな」男はへらっと笑った。「だけど無職か?」
「今日は休んだだけだ」
 苛々しながら答える。
「そっちこそ無職なんじゃないのか」
「好きに想像してくれ」
 軽く流しながら、男は玄関に向かう。俺も少し後ろを付いていった。
「腹は大丈夫なのか」
「ありがとう。くだったらまた寄る」
 靴を履きながらひらりと手を上げるので「もう来るな」と即答する。男はまたケタケタと笑った。よく通る大きな声だった。
 男が玄関を開けると外の空気がひゅるりと流れ込んできた。さっきは気付かなかったが、もうだいぶ暖かい。電気を付けていない室内と違って、外は眩しいほどで、思わず目を細めながら、さきほどまでの憂鬱が一気に吹き飛ばされてしまったような気分になった。
「もうすぐ、春だなあ」
 男が言った。
 その顔は誰かに似ている。
「春一(ハルイチ)…?」
 ほとんど無意識でつぶやいた瞬間、遠い小学生時代の記憶が一気に蘇った。文字が読めないくせにいつも眺めていた文庫本。姿勢の悪さでよく叱られて、そのたび悔しくてこっそり泣いた。けれどまわりの大人たちがどんな方法を試しても、俺の姿勢が直ることはなかった。
 そんな冬のひときわ寒い時期に突然転入してきた春一は、景色が春になる前にいなくなってしまった。いつの間にか流れすぎる季節のように彼は、それでも確かに、俺の記憶の中を通り抜けていた。
「正解」
 男が笑う。
「やーっと思い出したか」
「あのシミ、誰かに似てると思ったら、小学生のときのおまえだったんだ」
「シミ?」
「いや。なんでもない」
 俺も笑った。久しぶりすぎて、上げた両頬がかすかに引きつる。それすら心地よかった。
「ああ、春だな…」
「そうだよ」
「…………あのさ、」
「ん?」
 春一が振り向く気配。俺はひたすらに家の中を見ている。“上がっていけば?”小さな声でつぶやけば、春一はまたあの大きな声で笑うだろうか。



090228



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