アルファ2



 昨日の雨はあがって、外はからりと晴れていた。眼前に広がるたくさんの水たまりに注意しながら、ゆっくりと自転車のペダルをこぐ。今日は宝くんと公園で昼食を食べる約束をしていた。
 道の途中、魚のかたちをした水たまりを見た。エンゼルフィッシュだっけと嬉しくなる。その水たまりは、数ヶ月前に宝くんが見つけたものだ。今でも雨が降るたびに、変わらないかたちをしてそこに現れる。

「髪の毛食べてるよ」
「ん」
 昼食を食べながら水たまりに思いをはせていたら、ふいに彼の手がわたしの口元に伸びてきて、髪の毛の束が救出された。
「花代さんっていつもぼうっとしてるね」
「ごめん」
 あわてて謝ったけれど、宝くんは不満げな顔をしたままだ。すぐに拗ねるところが子どもっぽい。アヒル口をさらにとがらせた宝くんの顔は滑稽だ。滑稽でかわいい。
「おれといるのつまんない?」
「楽しいよ」
 楽しくなかったら一緒に昼食なんて食べないし、まず誘われた時点でお断りしている。心からの返事のつもりだったが、宝くんはいまいち納得がいかないようで、あまり手入れされていない髪の毛を乱しながら「ふうん」とつぶやいた。そのままふたりとも黙りこくる。
 目の前の池を泳ぐ色とりどりの鯉を眺めていたら、なんだかふいに切なくなった。
「二十五ってさあ、高校生からしたらもうおばさんかなあ」
 ぼそりとつぶやけば、宝くんは「そんなわけない」と即答をした。
「二十五でおばさんなんて」
「だって七つも違うんだよ?」
「七つしか違わないよ」
 宝くんは前を向いたまま、地面からむしった草を両手でいじっていた。長々といじりたおされ、名前もわからない草が彼の手のなかでぼろぼろになる。
「わたし、宝くんより先に死ぬのかなあ」
 かるい疑問のつもりで口に出したら、宝くんは珍しくきっと目をつり上げた。身をのりだしてわたしの顔をのぞき込もうとする。宝くんの目は吸い込まれそうにまっ黒だ。なにかの穴のような色をして、わたしを捕らえて離さない。草は足元に落とされた。
「また何か変な番組見たの?」
 怒ったように訊いてくるので、「ううん」と首を横に振る。宝くんはしばらく考えるように黙り込んだあと、ぼそぼそと口を開いた。
「授業で習ったんだけど、日本人の平均寿命って男の方が短いんだよ。だからたぶんおれたち一緒ぐらいに死ぬよ」
 そうかなあ、と半信半疑に言ったら「絶対そうだ!」と髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。それから宝くんは唐突にわたしを引きよせて抱きしめた。まるで初めて自分の赤ちゃんを抱く父親みたいに、危なっかしくて照れくさそうな手つきだった。わたしの肩に顎をのせて、宝くんがつぶやく。
「この話やめよう」
「ウン」
 不安を隠さない宝くんをかわいいなあと思ったけれど、口に出したらまた拗ねてしまうので黙って身をまかせた。どうにもくっつききらない、ぎこちない距離が心地よかった。
 ふいに、ピリリとこもった電子音が響く。宝くんのポケットからだったが、彼は反応しようとしない。しばらく鳴り続けたので、「鳴ってるよ」と言ったら、彼はじつに名残惜しそうにはなれていった。
「バイトのじかん?」
 宝くんは、高校を卒業したら県外の大学に行きたいらしい。そのための資金を今から貯めているのだと前に話していた。
「…うん」
 宝くんが力なくうなずいて、わたしは「じゃあ解散だね」と笑った。
「………」
 宝くんは少しうつむいて無口になる。何かを言いたそうだったけど、結局何も言わないまま、わたしが先に「またね」と言った。宝くんも遅れて「また」と返した。それから「ごめんね」と言った。小さな小さな声だった。
 走っていく宝くんを見ながら、今朝見たエンゼルフィッシュの水たまりのことを報告しようかと思ったけれど、やっぱりやめた。彼の背景で咲いている白いあじさいの葉にはまだ水滴が乗っていて、目に見える雨のなごりに胸がつまりそうになる。ひとりベンチに腰かけたまま、わたしは宝くんのいなくなった方向をいつまでも見ている。



090225



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