受けいれてあげる



 彼には感情がないのではないかと時々思う。
 ルームシェアの相手である畑田基(ハタダ モトキ)には、大切なものを一カ所にため込む犬のような癖があった。小さな空き箱の中にはきっと彼の夢と希望が詰まっている。
 二年間一緒に暮らしていて、畑田が彼女らしき人を連れてきたこともなければ、友人の一人すら見たことがなかった。彼は無口だ。無口で気味の悪い男だ。

 先日、彼女との喧嘩で苛々していた俺はひどく酔っぱらって帰り、すでに寝ていた畑田を揺さぶり起こして当たり散らした。挙げ句の果てに畑田の宝箱を四階の窓から外に捨てたのだが、彼は驚いた様子もなく、ただ穏やかな目で俺を見ていた。口元にうっすらと笑みを浮かべているようにさえ見えた。そのことにまた腹が立った。
 次の朝、ひどい頭痛で目を覚ました俺は、けれどきちんと布団を被ってベッドに寝ていた。枕元にはコップに入った冷たい水と二日酔い用の錠剤が置かれている。誰が準備してくれたのかは考えるまでもなかった。
 今さら深く反省する。水を飲み干してすぐに庭に向かったが、昨日俺がばらまいたはずの宝物は跡形もなかった。部屋に戻り、すでに出かけているらしい畑田の部屋をのぞくと、宝箱はとっくに元通りになっていた。安心するのと同時に、ひどい自己嫌悪に襲われる。最低だ。その日は畑田の分も晩ごはんを作った。自分のためだった。
「おまえ怒らないの?」
 食べ終わった自分の食器を洗いながら、まだ無言でハンバーグを頬張っている畑田に訊いた。口の中のものをゆっくりと嚥下して、畑田が口を開く。
「いいんだ」
 彼の声は落ち着いている。心臓に響く低音。俺は手を止めて畑田を見る。目が合って、彼は続ける。
「俺であんたの気がすむんなら、いくらでも当たってくれていい」
 当然のように浮かんだ「どうして」という疑問をそのまま口に出したら、畑田はいつもの空虚な顔で笑った。
「俺は償いたいんだ」

 畑田には彼女がいないのではなく、死んだのだと知ったのはそれから数日後だった。昔彼の友人だったという男から、偶然聞いた話だ。
 畑田と彼女は今の俺と畑田のような関係だった。畑田はいつも理不尽な理由で怒って、彼女はいつも大人しかった。黙って彼を受け入れた。受け入れて受け入れて受け入れて、そうして二年目の夏に死んだ。眠っている間に隣で冷たくなっていた彼女のからだを抱えて、畑田は全て自分のせいだと思った。そのとき初めて後悔をした。遅すぎる後悔は、彼の心に大きな穴をつくった。

「俺を彼女の代わりにすんなよ」
 その日は遅く家に帰った。キッチンでインスタントラーメンを食べていた畑田に吐き捨てるように言ったら、彼は口元だけで笑った。否定はしなかった。
 俺はキレてまた畑田に殴りかかる。畑田は黙って俺の暴力と理不尽を受け入れる。彼女が味わっていた感覚を、彼も同じように感じたいのだ。
 そうして畑田は錯覚する。まるで自分がいつかの彼女になったように、錯覚する。ゆっくりと目を閉じる。彼は全てを受け入れる。彼は彼女になる。
「ふざっけんな!!」
 無抵抗の畑田の、かたい胸を殴る。腹を殴る。頬を殴る。無性に腹が立って、怖くて、どうしようもなかった。俺の後悔の穴はまだまだ小さく、けれど着実に広がる。それは急速に。
 涙が溢れた。俺ももうすぐ。



090220



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