肌丸(後)



 次の日の朝、早太から肌丸が死んだと電話があった。冗談かと思ったがそうでもないようで、背骨の病気が悪化して昨夜突然逝ったらしい。最期はしっぽを振ることもできなくなったと、無感動な声で告げた。
『朝になったら笑を呼ぼうと思ったんだけど』
「うん」
『たぶん肌丸も会いたがってたんだけど』
「うん」
『でも苦しまなかったから』
「うん」
『…あのさ』
「なに」
 短い返事をしながら、頭の中はぐるぐるして、吐き気がする。命って本当にこんなもんなんだ。
『肌丸は間に合わなかったけど、俺はまだ間に合うよ』
 外で蝉が鳴いている。あの虫の寿命が一週間足らずだということなんて昔から知っていたはずなのに、突然それがどんなに切ないことなのか分かったような気分になった。涙があふれそうになる。
『あいたい』
 電話越しの震える声が脊髄に響いて、僕はすぐさま電話を切った。玄関に走る。姉のお下がりの古びた自転車にまたがり、全力でペダルをこぐ。

 ふわふわの毛布が敷き詰められたダンボールの中で、肌丸は本当に冷たくなっていた。まだやわらかさの残る毛並みを撫でながら、これが死の温度なのかとぼんやり考えていたら、肩に早太の手が乗せられた。
「俺、へいきだと思ってた。飼い始めるときに母さんと約束したんだ。しんじゃっても泣かないって。でも無理だな。無理だよ」
 目を合わせようとしない早太をじっと見つめる。目をそらしていないと、本当のことが言えない彼を、何年も前から知っている。
「泣けばいいだろ」
「できない」
「泣くところが見たい」
「俺のこと変だって言うけど、笑も十分変だよねえ。そういうところがすきなんだ。笑がすきだよ。たまらなくすきだ」
「やめろよ」
「頭がおかしくなりそう」
 ククッと笑って俺の腕を掴んだ早太の力は、思っていた以上に強くて少し怖かった。
「この間のつづきしてもいい?」
「今度はおまえんちの扇風機、ぶっ飛ばすぞ」
 顔を近付けてくる早太を睨んだけれど、彼は楽しそうに「いいよ」と笑うだけだった。顔が近い。目をつむる。息を止める。口元に息がかかる。肌丸のではない。
 ぎゅっとつむった目に力を入れすぎて痛かった。背中に回り込んだ早太の手が僕の背骨を撫でる。上から下。見えなくても分かる、ほんの数ミリしか離れないところに、早太の顔がある。
「子どもみたいなこと言ってもいいかな」
 ふいに早太が言って、近くで聞きすぎた声が脳みそに響いたような気がした。
「子どもだからいいんじゃない」
 僕も同じ距離で返す。早太が息を呑んだ。まるで怯えて、彼らしくもない。
「今度はいつ肌丸に会えるかなあ?」
 そのまま、ひどく頼りない声で彼は言う。僕はどう答えれば一番いいのかとしばらく考えてみたけれど、結局いい答えなんて思いつかなかったので「さあ」と短く答えた。早太は初めから僕に答えなんて求めてなかったみたいに、まるで上の空で「会いたいなあ」と呟いた。
「僕も」
 誰にともなく答える。ふいに早太が身を引く。急に薄れた体温が、今朝早く死んだ肌丸と瞬間的に重なって、自分もずいぶん怯えていることに気付いた。
 明日は早太が肌丸になっているかもしれない。小さな箱の中で花に埋もれて眠っているのは僕かもしれない。見えなくても確実に、誰にもその可能性はあった。
「泣かないの」
 一言喋るたび、乾いた空気を吸い込んだ咥内がからからになる。
「涙が出ないからいい」
「どうして」
「笑がいるから」
「ああ」
 よく分からなかったけど納得したみたいに呟いて、僕はもう一度、肌丸に目をやった。
 ふかふかの毛布。ダンボール。たくさんの愛に包まれて、肌丸は笑ってるんだか眠っているんだかよく分からない顔をしている。果たして彼の一生が幸せなものだったのかそうでないのかなんて誰にも分からないけれど、消えたその命に対して流される涙は何滴にしろ本物だ。
 外は真夏。空には何か巨大な生物の皮を剥いだような雲がいっぱいに広がっている。手を伸ばしたら届きそうな気もする。そんなはずはないけど。肌丸を見つめる早太の横顔をぼんやり眺めながら、明日は雷が鳴ればいいとなんとなく思う。



090215



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