肌丸(前)



 マンションの外は真夏だった。自販機に飲み物を買いに行ってきただけでもくらくらする。屋根がある分、室内の方がいくらかましだ。買ってきた炭酸水のプルトップに手をかけたところでインターフォンが鳴った。
「えーみ、久しぶり」
 カメラから送られてくる見慣れた顔の映像に、僕はため息をついた。幼なじみであり、今は違う高校に通う追川早太(オイカワ ソウタ)が立っている。
「久しぶりって、昨日も会った」
「何回会ったっていいだろ?入れてよ、散歩してたら暑さで肌丸(ハダマル)がのぼせちゃったんだ」
 肌丸は早太が飼っている犬だ。小さな柴犬っぽい姿をしているが実際の犬種は違うらしい。
「ここはペット禁止だぞ」
「だから早く、バレないうちに」
 カメラの向こうでずうずうしい笑みを浮かべる早太に、僕はもう一度ため息をつきながら、エントランスのロックを解除した。玄関のカギも開けておき、のぼせてしまったという肌丸に水を用意する。早太の分も準備しようかという考えが頭をかすめたがやっぱりやめて再び窓際に寝転んだ。
 当然だがしばらくして早太が家に入り込んでくる。彼の片手に大人しく抱えられていた肌丸が、僕を見たとたんしっぽをぶんぶん振って身を乗り出した。
「肌丸は相変わらず笑(エミ)が大好きなんだなあ」
「その犬を放すなよ」
「わかってるよ」
 にやにやと笑いながら早太は近付いてきた。興奮した肌丸の鼻息が耳にかかるくらいまで寄せられる。触れ合わないギリギリのライン。
「近いよ」
「そうかな」
 正直、僕は肌丸が苦手だ。犬に対する僕のささやかなトラウマは、この肌丸に植え付けられた。
 僕らがまだ中校生だったころのこと、子犬の姿で拾われて、誰にでもすぐになつく性格から、肌丸はすぐに近所の人気者になった。早太の幼なじみである僕にも当然肌丸に会う機会は何度かあったのだが、どうしてか肌丸は僕を見ると固まってしまう。『嫌われてるのかなあ』と呟いた僕を、早太は『逆だよ』と笑った。その時は意味が分からなかったが、翌年の春、久しぶりに肌丸に会った。いくらか時間が経ったことで、肌丸が僕になついてくれているかもと淡い期待をいだいていたのだけど、彼の反応は予想以上だった。早太の庭で放し飼いにされている肌丸は僕を見るなり一直線に突進してきて、あまりの勢いにしりもちをついた僕の上にのしかかり、あろうことかそのまま求愛行動を始めた。
 小さくて頼りないと思っていた肌丸の力強い動きに僕はただただ圧倒されるばかりで、あの時タイミングよく早太が現れて興奮した肌丸を引き離してくれていなかったらと考えると、何年も経った今でも少しゾッとする。あの時早太は肌丸を抱きかかえながら、戸惑いのあまり半泣きになっていた僕に向かって『こいつも男だから』と笑った。僕だって男だ。
「暑い」
 早太と肌丸が乗り込んできてから数十分。あまりの暑さに呟いた。そばで肌丸を抱えて寝ころんでいた早太が、わざとらしく笑う。
「誰かさんが扇風機こわしたから」
「おまえのせいだ」
「蹴り飛ばしたのは笑の足だろ」
「だからそうなったのはおまえのせいだろうって」
「なあ、俺と肌丸の違いはさあ」
 ふいに話題がそらされる。僕が黙り込むと、早太が続けた。
「理性があるかないかってとこだけなんだよね」
「なに?」
「俺と肌丸は似てるよ」
 僕は真剣に話しているのに、早太はいつでもへらへらしていて、本気になりきらないみたいなその態度に腹が立つ。蒸し暑い気温のせいもあってか、いつもよりもイライラする。しばらくふたりとも無言だった。
 薄い壁の向こうで、隣の家の子どもたちが走り回っている音がする。楽しそうにはしゃぐ声。
「僕が肌丸を苦手なのは知ってるよな」
「もちろん」
「なんでつれてきたんだ」
「散歩してたらのぼせたからだって」
「自分の家に帰ればいいのに」
 寝返りを打って背中を向けたら、首筋に息がかかった。肌丸のではない。
「あいたかったから」
 早太の声がまぢかで響いて、背筋がぞくりとした。
「顔見たかった。さわりたかったんだ」
「……」
「さわっていい?」
「変な言い方するな」
 早太の手が薄いTシャツ越しに背中にふれる。身構えてはいたものの、やはり少しびくりとした。
「俺、笑の背骨が好き」
「なんだよそれ」
「べつに背骨に欲情してるわけじゃないけど」
 早太の手は僕の背骨を上から下へなぞっていく。くすぐったくて身じろいだら肩を押さえられた。
「あったかいと安心するんだ。生きてるなあって」
「骨に温度なんかある?」
「かんじるってことはあるんじゃないかな」
「ふうん」
 またしばらくの沈黙。肌丸のハッハという息づかいだけが生ぬるい室内に響く。落ち着いた呼吸。子どもたちの足音はもうしない。
「ねえ」
 早太が口を開く。耳に流れ込むやわらかな音。いつになく真剣な声に、体が強ばる。僕の返事を待たずに早太は続ける。
「笑のさあ、背骨以外も好きだよ」
 僕は彼に背を向けたまま、眠ってしまったふりをした。



 ふりのつもりがいつの間にか本当に眠ってしまって、僕が目を覚ましたときには早太も肌丸もいなかった。安心するのと同時に、少し淋しいような気持ちになる。その日は風呂にも入らずに寝た。



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