心配する必要ないよ



 突然現れては突然消える。
 その生き物を初めて見たのは数ヶ月前で、ちょうど今日みたいに空が曇っていて今にも何か降り出しそうな天気の下だった。彼(実際のところは彼だか彼女だか分からないのだが、訊くことも出来ないので僕は勝手に彼と呼んでいる)は豚か犬に似た奇妙なかんばせをしていて、僕より数センチ背が高い。初めてその細い指が僕の腕に絡み付いた時には、危うく悲鳴を上げそうになった。

 生活していて、ふと思う。雨が降りそうだなあと思う。すると、視界がもやもやしてくる。まるでとても熱いものを見ているような感覚。それから突然眩しくなって、僕は目を瞑る。数秒後に目を開ける。すると彼が目の前にいる。
“心配する必要ないよ”
 彼は言う。会う度に言う。でも僕には、何を心配する必要がないのか分からない。そのせいで不安になる。その言葉を耳にする度、心臓がぎゅっと縮む。時間をかけてまた伸びる。僕の心臓が元通りに動き出す頃、彼はもうどこにもいない。後には決まって雨が降る。
「兄ちゃん、虹って知ってるか!」
 ノックもせずに扉が開けられたかと思えば、勝手に部屋に入り込みながら弟が言った。僕は眉をひそめて弟をにらんだけれど、なにやら噴気しているらしい彼は自分に夢中で気づかない。
「なんで教えてくれなかったんだよ!」
「ばかじゃねえの」
 深くため息をつくと、弟は泣くのを我慢するような顔で僕をまっすぐに見すえた。気味が悪い。
「ずるいぞ。独り占めしてたんだろ」
 弟から視線をそらすように首を回すと窓が目に入った。雲行きが怪しい。また雨が降るのかもしれない。
“心配する必要ないよ”
 声が聞こえる。姿は見えなくても、傍に居るのが、空気から伝わる息づかいと体温で分かる。心配する必要がないって何を?教えてよ。



-エムブロ-