泪かと思ったら違った



 頭の中で声がする。誰の声かは分からない。
『きみ、きみ、知っているか。人間はホ乳類であり、体格に見合った翼を持っていない、だからきみが空を飛ぶことはできない。人間にとって空を飛ぶということは、つまり死ぬことなのだよ』
 雨の降る中を傘もささずに歩きながら、あたりまえだ、と思った。わたしは空を飛びたいなんて思わない。飛ぶ人間を見たくもない。けれど声は続ける。わたしはその声だけをきいている。
『ためになることを教えよう。ミノタウルスとは牛頭人身、ケンタウルスとは人頭馬身。さあ繰り返して』
 ばかばかしい。嫌になって目線を落とすと、轢かれたカエルが目に入った。頭と身体がばらばらになった緑色のカエルは、それぞれ別々のいきものみたいに見えた。わたしは気分が悪くなって目を逸らした。そこにも違うカエルがいた。
『きみ、きみ、知っているか。世の中には飛べない鳥というものがいる。これがわたしだ。きみたちもわたしと同じように空を飛ぶことはできないが、名称はただの人間だ。なんと空しいことだろう』
 通りがかった塀の上で、一羽のカラスがこちらを見ていた。わたしが真横を通ろうが、カラスはびくともせず、じいっとこちらを見据えていた。心が聞こえるかと思った。
『人間に生まれたということは、なんと空しいことだろう』
 空しくない。幸せだ。人間に生まれたということはそれだけで幸せだ。だからわたしは幸せなのだ、たとえ突然の雨に制服がずぶ濡れになろうが、猛スピードの車に水を跳ねられようが、カラスにばかにされようが、わたしは幸せものなのだ。マンションの階段を一定の速度で上りながら、わたしは唐突に頭を掻きむしりたいと思った。思っただけだった。
『飛べない鳥にも幸せはある。飛ぶことだけが幸せだと思うなよ』
 屋上に出る。フェンスはない。あと何歩歩いたら、わたしは空を飛ぶのだろう。
『死ぬことが幸せだと思うな』 
「思わないよ」
 望んでいることだけで出来ている世界なんて世界じゃない。誰もが誰も、幸せになるために飛ぶと思うなよ。わたしは声に言った。それから足を止めずに歩いた。歩いた。歩いた。ふちに立った。足が止まった。声は消えた。風が吹いた。身体がよろけて、何十メートルも下に道路が見えた。わたしは悲鳴を上げていた。
『ミノタウルスとは牛頭人身、ケンタウルスとは人頭馬身……』
 屋上に崩れ込んだわたしの目の前に、カラスが一羽飛んできてとまった。じいっとこちらを見つめるカラスの目玉は、いつの間にか晴れていた空の太陽に照らされて、ぎらぎらと輝いていた。わたしは震える腕を伸ばしてカラスの目元に触れた。濡れているかと思った眼球は、けれど乾ききっていて、わたしの指先には黒い羽根のつまらない感触だけが残った。



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