公園の鳩



 昨日、家出をした。携帯電話にはメールも電話もこなくてなんだか悔しいので電源を切った。公園のベンチに座ってぼうっとしていると、鳩がたくさん寄ってきた。睨み付けても鳩はびくともしないが、それ以上近づいてこようともしなかった。
「どうした、」
 突然声をかけられて、鳩より僕の方がびくりとした。隣に座ってきたのは、昨夜から近くで段ボールにくるまって寝ていたおじさんだった。
「家出でもしたか」
 笑顔で問いかけてくる相手を無言で見つめる。眉間に皺を寄せたら苦笑いされた。
「寄ってくる鳩には餌をやるんだ。睨んじゃ駄目だ」
「どうして」
「睨むといやな気分にさせる」
「鳩が分かるもんか」
「それもそうだな」
 おじさんがガハハと笑って頭を掻くと、ぱらぱらとふけのようなものが落ちた。僕は少しだけ横にずれた。
「母さん心配してるぞ」
「してない」
「どうして家出した?」
「関係ないだろ」
「まあそうだろうな。たまには、家出もするわな」
 ふん。僕はそっぽを向いた。おじさんはたいして怒った様子もなく、ポケットからパンを取り出して、小さく千切って鳩に投げた。
「あんたに何が分かるんだ」
「それも、そうだな」
 ばかみたいに群がる鳩たちを、おじさんは愛おしげな目つきで見ている。
「おまえも鳩だな」
「?」
 意味が分からなくて訝しげな目で見つめるけど、おじさんは相変わらず鳩ばかりを見ていて、そのことに苛々する。無性に。
「僕は鳩じゃない」
「おまえ今、苦しいか」
「苦しい」
「苦しくないやつなんているのか」
「どこかには」
「分からないだろ。他人のことなんて。いくら仲が良くたって身近だって、言わなきゃ伝わらないことがたくさんあるぞ」
「そうなの?」
「ある、ある。びっくりするぐらいある」
「ふーん」
「おれがおまえのことなんて分かるはずもないみたいに、おまえにだって鳩の気持ちが分かるはずないんだ。もちろんおれだってサッパリ分からん。こいつら、可愛い顔して、ちっちゃい頭で、何考えてるんだか」
「…母さん、心配してるかな」
「してる、してる。もうすぐ心配で死んじまうぞ」
 おかしそうに笑うおじさんに僕も少しだけ笑い返した。僕はズボンのポケットにねじこんでいた携帯を取り出して、電源を入れた。その瞬間、買ってから一度も変えていないメールの受信音がピリリと手の中に響く。膨大な数のメールと着信。ちっぽけで無機質な機械の中には、一日分の両親の愛があった。僕は振り向いておじさんを見た。そこにはもう誰もいなくて、ただ無数の鳩が一カ所の餌に群がっていた。
 携帯をギュッと握り直し、僕は走って家に帰った。



-エムブロ-