永吉くん2



次に帰りの時間が被ったのは、それから一ヶ月後だった。それ以外の時間で話すことはなく、学校にいるとき永吉くんは常に絵を描いている。誰も寄せ付けない雰囲気で、まっすぐにキャンバスだけを見つめて、だんだん浮かび上がってくる絵は怖いくらいにきれいで、けれど永吉くんはいつも完成間近で塗りつぶして全く違う絵を描き始めてしまう。分厚く塗り重ねられたキャンバスは高校の頃からずっと使い続けているのだという。あまりにも絵の具が重なって重くなると、表面をそぎ落として、また重ねる。きれいな色とは裏腹に、真っ黒な空気をまとったキャンバス。

バス停で出会ったわたしたちは、またバスに乗らなかった。同じ道を歩きながら、あの時の質問の答えが出たかと聞いてみたら、忘れてたと彼は言った。

「腹が立つことだっけ。すぐに思いつかないってことは、あんまりないってことだと思う」

人ごとのように分析して、永吉くんはさっさと歩く。一ヶ月前と全く同じペースだ。

「自分に関係のないことに腹は立たないし、だいたいのことは関係ないからかなあ」

「でも、人って感情的になりやすいよね」

「あのさ。誰にも感情がなければ、だいたいの問題はぜんぶ解決すると思うんだけどどうかな」

唐突な問いかけに少し逡巡したが、素直に答える。

「感情がなくなったら、人間のいいところなくなっちゃうよ」

「感情がいいところだと思う?」

「永吉くんにも感情があるでしょ」

「自分に感情があるのと、それをいいと思わないのは別だ」

永吉くんはたくさんのことを考えている。わたしは考えるのが好きだし、考えてる永吉くんが好きだから、それができなくなるのは淋しい。そう伝えたら永吉くんは、感情がなくなれば淋しいなんて思わないから、それも解決、とだけ言った。彼は考えてばかりいるくせに、考えることが嫌いなんだ。変なの。

「いくつ答えをもらっても永吉くんのこと、よく分からないな」

「おれにも分からない。分かることなんてないと思う」

「そんなの淋しい」

「淋しくないよ。分かったって思ったら終わりなんだ。分からなければ終わらない。そっちの方が、淋しくない」

永吉くんにも淋しいって感情があること、そして淋しくなりたくないって思ってることに驚いたところで別れ道。次にこうして話せるのは何ヶ月後になるだろう。名残惜しく別れるわたしのこと、まるで見えなくなったみたいに、淡々と歩いて行く永吉くんの背中をいつまでも見ている。

次の日、教室を出たところで永吉くんと出会った。夜遅くで誰もいないと思っていたから驚いたけど、永吉くんがわたしを待っていたというのでもっと驚いた。その日の永吉くんは饒舌だった。しゃべり出したら止まらないみたいだった。

「自分の考えを話したあとって、必ず後悔するんだ。いたたまれない気持ちになって、何もかも言い訳したくなるし、そのことばっかり考える。なのにまた、こうやって喋っちゃうなんてばからしいよね。不安を減らすために、新しい不安を増やしてる。やっぱり感情なんて邪魔だ」

帰り道、永吉くんがしゃべり続けるのを、わたしはひたすら聞いていた。あふれ出した彼の中身をぜんぶ見たかった。感情がいらないなんて思うってことは、本当はものすごく感情豊かってことなのかも。それがいやだからって、抑えて生きているのかもしれないなんて思う。彼は我慢の塊だ。我慢ってすごく疲れるよ。わたしは苦手だな。

「永吉くんは色んなことを考えてるんだね」

そう言ったわたしを振り向いた永吉くんは見たことないくらい困った顔をしていて、何か言いたげに口を開いて長いこと考えていたけど、見つからないまま歩き出し、別れ道がくる。

絵を描いているときの永吉くんには誰にも話しかけない。無駄だと分かっているからだ。夢中になってる永吉くんには何も聞こえない。

「永吉くんは、幽霊って信じる?」

この質問にはすぐに答えた。

「いると思う人にとってはいるし、いないと思う人にとってはいない。そういう存在でいいと思う」

「永吉くんはどう?」

「分からないな。でもその存在を知ってるってことは、心のどこかにはいるから、いつ出てきてもおかしくない。ああいうものは全部、それぞれの心が生み出すものだと思う。心が作って、心が見せるもの」

「本当はいないってこと?」

「違うよ。心で見るってことは、目で見ることと同じ。その人にとっては紛れもない真実で、周りがとやかく言えることじゃない。その人にとっての真実がその人のすべてなんだから」

そうか。永吉くんにとって心はとても大事なものなんだ。だからこそ、時には煩わしく感じてしまう。心の占める部分が大きすぎるから、心が受ける痛みも多くて、いっそなければいいなんて、思うんだ。そうでしょう。

「その通りだよ。手当たり次第に蓋をして生きてる」

永吉くんが言う。わたしはまた何も考えずに声を出してしまっていたようだ。

「怖いんだ。生きてるだけで。ものすごく」




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