永吉くん



中学生の冬の終わり、美術の授業で、永吉くんがメチャクチャな絵を描いた。赤に緑に紫、でたらめに絵の具が混ざり合い、色も形も分からなくなった不気味な絵を描いた。友だちの顔を描きましょう、という授業だった。

永吉くんの絵が上手いことはみんな知っている。風景や胸像なんか本物よりもきれいに描くし、コンクールのたび入賞している。永吉くんが学校でそんな絵を描いたのは初めてで、みんなびっくりしていたし、永吉くんに描かれた隣の席の女の子は泣いてしまった。先生は永吉くんを怒って、描き直しなさい、と言った。それに対して永吉くんは怒らなかったし、泣かなかったし、黙ってもう一度描いた。そして授業の終わりのチャイムと同時に、まったく同じ絵を提出したのだった。

でたらめに描いてるように見えたのに、色の混ざり方までそっくり同じで、二枚の絵を並べて見たときゾッとした。授業が始まったときに先生が言った、「見えたままに描けばいいのよ」という言葉を思い出す。永吉くんには、こう見えていたんだ。隣の席のあの子が。だからこの絵を描いた。それは自然なことだとわたしは思った。

その日を境に、永吉くんに対する美術の先生の態度は急変した。絵の上手な永吉くんには優しかったけど、ヘンテコな絵を描く永吉くんは嫌いみたいだ。クラスメイトたちも、少し遠巻きに彼を見守るようになった。元から飄々とした性格で、一人で行動することの多かった永吉くんは、本格的に一人になった。

けれど彼にとってそんなことは何でもないことのようだった。変わったのは周りの人間だけで、永吉くんは変わらない。授業中でもぼんやりと空を眺めて、あくびをしたりなんかしている。それを見つけた先生に当てられて、平気な顔で分かりません、と答える。今まではカッコイイ、って目で見てたみんなも今は、変なヤツ、って顔してる。わたしには、それがたまらなかった。
とても絵が上手くて、みんなから一目置かれていた永吉くん。美術部には入らず、美術以外の勉強はめっぽう苦手な永吉くん。急に不気味な絵を描いて、みんなから避けられている永吉くん。彼が何を考えてあの絵を描いたのかわたしは知りたい。あの絵の一件から、わたしはどうしようもなく永吉くんのことが気になっている。それでも話しかけるきっかけも勇気もなく、中学生の残り時間はすでに少なく、わたしたちはすぐに卒業を迎えた。

永吉くんと同じ大学になったのは偶然だった。高校は違っていたし、県外にいくつもある美術大学の中のひとつで出会うとは思っていなかった。春、同じ教室の中に永吉くんの姿を見つけて、わたしはどうしようもないほどどきどきしていた。これから四年間も、永吉くんに話しかけるチャンスがある。

「浅野さん、同じ大学なんだ。よろしく」

そう言って帰りのバス停で声をかけてきたのは永吉くんだった。わたしの脳みそは事態にまったく追いつけず、「あ」だか「う」だか分からない声を出して、へたくそに笑った。固まっているわたしを見て、永吉くんは「ごめん」と言ってバスを待たずに歩き出した。ああ、行ってしまう。せっかく声をかけてくれたのに。違う、嫌なんじゃない、わたしはあなたに興味があるんだ。

「何それ」

永吉くんが振り向く。焦りが声に出ていたらしい。カッと顔が熱くなる。立ち尽くすわたしを見て永吉くんは、にやりと笑った。ずっと思っていたけど、永吉くんはきれいだ。姿形がとか、そんな簡単なことではなくて、とにかくとてもきれいだ。永吉くんが描く絵よりもずっと。

その日、わたしたちはそのまま歩いて帰った。横には並ばず、わたしは夕日を受けてきらきらする永吉くんの背中を見ながら歩いた。中学生のころより、ずっと背が伸びている。わたしの名前、覚えてたんだ。クラスメイトみんな覚えてるのかな。彼に訊いてみたいことがたくさんある。ありすぎて、何から訊いていいのか分からない。

「永吉くんって、どんなこと考えて生きてるの」

さんざん迷った結果そんな質問をした。

「どんなことって」

「例えば中学校の時のあれ、友だちの絵を描きましょうっていう授業で、先生に怒られてるとき。何考えてた?」

「ああ。懐かしいな。悪いなあって思ってたよ。どうしたらいいかなあって」

「嘘、なんにも聞いてない顔してた」

「うん、なんにも聞いてなかったよ。一生懸命考えてたから」

当然のことのように永吉くんは言う。

「永吉くんには、あの子がああいう風に見えてたの」

「違うよ。おれ、人を描くの苦手なんだ」

そんなことを言うので、わたしはわたしが見たことのある永吉くんの絵を思い出す。風景、風景、動物、人。確かに人もいたけどなあ。考えている間に、そのまま会話が途切れる。黙ったまま平気で歩く永吉くんが振り向かないのをいいことに、わたしは穴のあくほどに彼の後頭部を見つめる。彼の目には今何が映っているのだろう。次に何を話しかけようか散々迷った挙句、わたしはどうでもいいことを言う。

「あの先生、芸術は自由だなんて言ってたけど、ちっとも自由じゃなかったね」 

「いや、自由だよ。美術の授業に相応しくない絵を描いたのはおれの自由だし、それを見て泣くのも怒るのも自由。全部自由の結果だとおもう」

初めて触れる永吉くんの心は冷たい。まるで感情がないみたいだ。いや、本当はその心の表面にすら触れられていないんだろう。ずっと変わらないペースで目の前を歩き続ける永吉くんに、唐突に触りたくなった。触れたところから、この人の感情が読めるような気がした。

そんなことができるはずもなく、ただただ歩いて、思いつくだけの質問をぶつける。彼は常に自然体で、そしておかしい。どんなに質問攻めにしようと、わたしは彼を理解できない。

「永吉くん、怒ったことないでしょ」

「腹が立ったら怒るよ」

「腹が立つことあるの?」

この質問を境に、永吉くんは黙り込んでしまった。それからすぐの曲がり角が、わたしたちの別れ道だった。



170715 つづく




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