犬は深爪



 彼はわたしのために深爪をしている。女のように細くて白い指先は、いつも傷だらけで痛々しい。だからわたしは両手で包み込む。彼の愛を包み込む。
 外気に晒された彼の手は、冷たい。室内にいるわたしはどこもあたたかい。
「あなたの手を握った時の、嬉しそうな顔が好き。何よりも好き」
 いつものように温かな室内で彼の手を包み込みながら言ったら、彼はへらりと笑った。迷子のゴールデンレトリバーのようだった。
「きみが手を握る時のやさしい目が好き。何よりも好き」
 あら、ありがとうと答えたら、彼はふわふわの髪の毛を、甘えるようにわたしの喉元に押しつけてきた。犬のようなにおいがして、なおさら彼が愛しくなった。
「ねえ、お手」
 今の彼ならそう言われればする気がして、手を離して差し出してみる。彼は少しきょとんとしたあと、おかしそうに首をかしげた。
「ぼく犬じゃないよ」
「じゃあなに?」
「…犬でいいや」
 彼の大きな身体が小さくなる。かわいいなあ。首輪を付けていないと、昔いなくなったマルチーズのように、彼もどこかへ行ってしまうのだろうか?考え込むわたしとは別に、彼も何かを考えるように、制服の端を握りしめてしばらくうつむいていた。
「あの、やっぱり、人間がいいな」
 そうして控えめに呟いた彼に「わたしもそう思ったとこ」と頷きながら、頭にそっと触れてみる。ふわふわに見えた髪の毛は案外痛んでぱさぱさしていた。それでもそれが彼の一部なのであれば、たとえばもっとチクチクしていてわたしの指に突き刺さったとしても、今なら許せる気がした。
「犬歯と前歯、どっちが噛みやすい?」
「前歯」
 即答して笑った彼の口の中の前歯を見ながら、わたしは急にその前歯が憎らしくてたまらなくなった。彼の指先をぼろぼろにする犯人。わたしのいる前では一度も噛まないくせに、ひとりになると途端に爪を噛む。
「ばかだなあ」
 彼は幼くて甘えたで深爪で、時折ばかで、そして誰よりも愛おしい。けして犬ではないぬくもりをもった人間だ。だけど、犬なのだ。
「ばかだねえ」
 彼はいつも不安で不安でたまらないわたしのために深爪をしている。



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