コート



 冬のにおいを連れて彼は帰ってくる。薄い身体を分厚いコートに包んだ姿は、だるまから足が生えたみたいだ。笑うとムッとするのだが寒さには勝てないらしく、そのコートを着るのはやめないし、もこもこのマフラーも必ず巻いてでかける。外の空気に冷え切った彼は、暖かな室内に冷気を振りまきながら、キッチンに立つわたしに近づいてきた。コートの下は制服だ。成長を見込んで購入されたため、これもまた身体に合わず大きい。おろしてから半年以上が経つというのに、いまだに制服に着られている状態で、毎日健気に学校へ通う。
 彼はシンクの冷たい水でしっかり手を洗い、ぶるりと肩を震わせた。そうして振り向き、鍋から立ち昇る湯気を捕まえるように手を伸ばす。今まさに鍋の中身をかき混ぜていたわたしは、危ないよと彼に言う。平気だ、と八重歯を見せる彼の頬は赤く、鼻の先も同じく赤く、外の寒さが感じられてわたしまでぶるりと震える。
 彼は湯気を見つめたまま少しだけにこりとし、何も言わず、その手に温かさを染み込ませるようにひたすらくるくるさせていた。わたしも彼が帰ってくる前までのように、黙って鍋の中身をかき混ぜる。静かなキッチンで鍋の中身だけがクツクツと音を立て、できたての匂いと湯気は彼の手を掠めて残らず換気扇に吸い込まれていった。

 食卓に料理が並ぶ頃には彼の身体も温まり、慣れた手つきで急須にお湯を注ぐ。この湯気は浴びることなく蓋をしめ、すぐに中身を湯のみへ注いだ。食事が始まる頃には冷めているだろう。お茶は薄ければ薄いほどよく、さらにぬるいのがいいというのが彼の好みらしいので、わたしは何も言わない。自分の分は好きなタイミングで注げばいい。それが分かっているから彼もわたしの分までお茶を注いだりはしない。
 食事が揃い、向き合ってテーブルにつくと、彼はほんの少しだけ手を合わせて箸を握った。食事を摂り始めてからは、お互いひたすら集中するため、室内には食事の音だけが響くことになる。匙と器の触れ合う静かな音。僅かながらの咀嚼。嚥下。この時間がわたしは好きだ。生きていることを感じる時間。生きるために過ごす時間。目の前で彼も、わたしのたった一人の弟も、同じ時間を過ごしている。彼が生きている。生きようとしている。突然思い出したように、おいしい、とだけ呟く彼にわたしは今日も生かされている。
 食事中でなくても、わたしたちにほとんど会話はない。お互い独り言みたいに、ときどきぼそりと呟くだけだ。テレビを見たりもしないから家の中はだいたい静かで、お互いの生活がよく聞こえる。あるいは聴きたくて、静かにしているのかもしれない。

 彼が食器を洗う音を聞きながら、わたしはぼんやりと、壁に掛けられた群青色のコートを見つめた。元はわたしが学生の頃に使っていた古いコートだ。彼は高校生だったわたしよりずっと背が低い。高校で一気に伸びるからと根拠のない期待を抱いているようだが、いつまでもひょろりとして小さな彼がわたしの背を超えるのは想像がつかない。
 高校へ入学する際、新しいコートを買おうと提案したのに断ったのは彼だった。経済的に切り詰めていたわけでもない。けれどもこれがいいのだと彼は譲らなかった。使い古された群青色のコート。わたしの三年間を知るコート。今は彼の身体を温める。
「ねえ、コート借りてもいい」
 我慢のできなくなったわたしは、答えの分かっている質問をする。分かっていても聞きたいからだ。
「姉さんのコートだよ」
 思い通りの答えに満足し、コートを着たいためにわざと買い忘れたものを買いに出る。全てを知っている弟、それでも知らないふりをするから、わたしもバレていないふりをして、いつも通りの静かな夜。昨日より少しだけ欠けた月。わたしを包む冬のにおい。


160624



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