さよならのこと



 またさよならが言えなかった。目も合わせられなかった。数ヶ月前までは、毎日のようにあのこと見つめあったのに。あのこがいない場所でも、わたしはあのこのぜんぶを思い出すことができた。

 放課後のチャイムが鳴ったら、わたしたちはいつも一緒に教室を出ていた。並んで歩けばいいのに、あのこはいつもわたしの少し後ろをついてきて、会話もしないで校門をくぐった。あのこあんまり静かに歩くものだから、わたしときどき不安になって後ろを振り向くと、目が合ったあのこがはにかむように下唇を噛む。それがたまらなく好きだった。
 夕日に照らされる帰り道を、少し離れて歩いていく。だんだん同じ方向へ向かう生徒が減ってきて、そのうち人影もなくなったころ、あのこはわたしの隣へ並んだ。背の低いあのこは歩きながらわたしを少し見上げて、そこで初めて口を開く。
 そうして「さようなら」を言う。だからわたしも「さよなら」を返す。そこはもう別れ道で、わたしはまっすぐ進むけど、あのこは右へ曲がる。ちょうど夕日の沈む方向へ歩いて行く。まぶしくて、あのこの姿はすぐにぼんやりとかすむ。

 あれだけ聞いていた声も、今ではもう思い出せない。あまり見たことのなかった後ろ姿ばかりが、瞼の裏に焼き付いている。同じ教室の中にいて、わたしずうっとあのこを見てるのに。そうしていれば一度くらいは目が合うかと思って、なのにあのこはちらりともこちらを見ないまま。

 一度だけ、あのこがさよならを言わなかったことがある。いつもの別れ道で、隣に並んだあのこをわたしは見ていた。あのこはわたしを見上げて、いつものように口を開いた。だけどいつまでも喋らない。そのうち何かを決意したかのように、わたしが進む方向へ歩き始める。歩いていくあのこを追いかけて、曲がらないの、とわたしはきいた。あのこはやはり何も言わずにわたしの服の裾をそっと握った。それが答えだった。あまりに突然のことに、わたしは何も言えなくなって、そのまま一緒に家まで帰った。わたしたちは晩ごはんも食べないですぐに布団に潜り込み、ただ背中を合わせて朝まで眠った。お互いに一言も喋らなかった。あのこの背中から流れ込んでくる悲しみにわたしは気付いていて、それでもどうにもしてあげられなくて、なのにわたしは幸せだった。あのことそうしていることが。ひとりじゃないということが。
 朝になって、一緒に学校へ行って、帰り道、あのこはいつも通りに右へ曲がった。次の日も、また次の日も。きっとあの日あのこは精一杯のSOSを出していた。どうにもできなかったわたしはもういらない存在なのかもしれない。なぜだろうわたし、あのこがこんなに好きなのに、助けようとしなかった。むしろわたしのそばで悲しみにくれるあのこを心底愛おしいと思ったし、いつまでもこうしていたらいいとさえ思っていた。
 さよならはいつもあのこからだった。わたしから言ったことなんてなかった。だからわたしは、あのこにさよならを言いたい。さよならを言った次の日は、当たり前のようにまた会いたい。最後じゃないさよならがいい。

 夢の中であのこは言う。わたしにさようならを言う。わたしはあのこのさようならしか知らない。そしてそれは死ぬほど待ちわびていた声なのに、わたしの胸はぎゅっと押しつぶされそうになる。わたしが先に言いたかった言葉、また言えなかった、でもあのこが言ってくれるからわたしはあのこにそれを返そうとするが声が出ない。黙ったままのわたしを置いてあのこは歩いていく。いつもはすぐに見えなくなる背中が、わたしを責めるかのようにいつまでも揺れている。

「さようなら」

 違う、聞きたいのはそんな言葉じゃない。わたしはあのこがわたしの名前を呼ぶ声だとか、一日の始まりのおはようという声だとか、笑う声も何もかも、あの子の全てを聞きたかった。楽しい声も悲しい声も怒った声もぜんぶぜんぶ知りたかったのだ。

 あのこの体温すらわたしは知らない。あのこの知っている部分より、知らない部分が圧倒的に巨大な塊になってわたしに重くのしかかる。知らない、知らない、何も知らない。唯一の知っていた部分すら、本当かどうか分からなくなる。顔も髪型も身長もあいまいで思い出せない。
 いつの間にかわたしはもうあのこがいない場所であのこを見ることができなくなっている。



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