聞こえたら



 聞こえたら返事をしてね、と言って、小さな声で話をするのが彼女の癖だ。ぼくはそのたび急いで彼女のそばにいき、待ちかまえている口元に耳を寄せる。彼女が喋り、ふわりと息がかかる耳元に、ぼくは身体をふるわせる。内緒の話みたいに、ふたりにしか聞こえない声で、彼女はその日にあった嬉しいことや悲しいことを囁く。それからひとつだけ、もしもの話をする。
「もしも、わたしが小な苗だったらどうする?」
 返事も聞かずに彼女は話を続ける。最後のセリフはいつも同じだ。
「わたし、今日もしあわせ」
 ぼくはその一言を聞きたくて、彼女の内緒の話を、毎日楽しみにしている。ぼくもしあわせだよ、なんて返事をしたいけど、彼女には何も聞こえない。返事をしてねと言いながら、彼女はそれを求めていない。
 もしも彼女が小さな苗だったら、ぼくは大切に育てて、大きな木になった彼女と一緒に春を迎えて、その木漏れ日で本を読む。彼女の苗は人一倍小さいけれど、そのかわり神様が特別に喉をくれたから、喋ることができるんだ。やっぱりぼくは毎日、内緒の話を楽しみにしているだろうね。
「明日もしあわせでいてね。いつまでも笑っていてね。楽しい声を聞かせてね」
 とっくに眠る彼女に、ぼくはぼくだけに聞こえる返事をする。
 わがままを言っていいのなら、ほかの人の話をしないで。ぼくのことしか見ないで。このままで、しあわせなのは嘘じゃないけど、ぼくは愛しい彼女に、ぼくだけの話をしてほしい。
 隣で眠る彼女の長いまつげがふるえる。見慣れたはずの顔なのに、くるしいくらいに愛おしかった。もしもの話が好きな彼女だけれど、きっとぼくの声が聞こえたらなんて想像はしない。ぼくは毎日のように考える。
「聞こえたら聞いていてね。返事をしなくてもいいから」
 聞こえない彼女の耳に言う。聞こえないから言う。
「好きだよ、姉さん」
 聞こえてしまえばいいのにと思う。



120115



fish ear提出
1月/もしもの話



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