長い二月のこと



 風が吹いた。寛太の風だ。彼が目の前を通り過ぎるのと同時に、ストップウォッチのボタンを押した。出たばかりのタイムを、誰よりも早く確認する。その瞬間が春香にはたまらなかった。陸上部のマネージャーを長く続けているのは、このためだけと言ってもいい。感嘆の溜息をこらえる春香の手元を、背後から寛太がのぞき込む。
「おい、タイムは」
「ああ」
 ハッとして表示された数字を伝えると、寛太は渋い顔をした。じゅうぶんに速い記録なのに、彼が自分の記録に満足して笑ったりなんかするのを春香は見たことがない。そもそも寛太はあまり笑わず、いつもつまらなさそうな顔をして、ぼんやりと走ることばかりを考えている。
 そんな寛太が心から笑うのを見たのは、幼稚園からの十三年間の付き合いの中で、たったの一度だけだ。何度もかけっこで一等になったって、陸上を始めて大会で記録を出したって笑わない寛太が、本当に心の底から笑うときは、まるでこの世の幸福を全てかき集めたみたいな顔をする。そのとろけるような笑顔を、彼が走った直後に見てみたかった。そのためなら何だってできる。けれど春香にできることは何もなく、寛太だけの世界で寛太は走っていて、割り込む隙などどこにもなかった。春香にはそれがとても淋しく、同時に不思議な嬉しさもあった。
 迫りくる夕刻に視界を奪われるまで、寛太は走りつづけた。春香はそれを見つづけ、何度もストップウォッチを止めた。その度に寛太は眉間にシワを寄せて記録を聞いた。
 彼は自分に厳しすぎる。今日だって練習のある日ではないのに、どうしても走りたいからと言うので付き合ってグラウンドを借りたのだ。辺りがすっかり暗くなり、スタートラインの寛太が見えないからもう帰ろうと提案する。あといっかいだけ、と言う寛太の望みを聞き入れて、最後に一度だけ走らせた。
 ゴールラインに立つ春香の、肩までの髪の毛が揺れる。風。寛太の風。春香の目の前を通り過ぎて寛太は走る。ゴールラインの何歩も先まで本気で走る。いつもなら止まるあたりまで行っても、寛太はスピードを緩めなかった。そのまま闇にまぎれて、どこかへ消えてしまうのではないかと、春香は不安になった。
 風を感じる瞬間の、寛太の顔を思い出す。必死の形相で、ずっと先だけを一心に見て、春香のことなど視界の端にも入れず、通り過ぎる寛太の顔だ。本当にそこへ存在するのかすら危うい、人間ではないような、熱く冷たい男の顔だ。どんどん小さくなる背中を見つめながら、彼は絶対に早死にするぞと春香は思った。なにをそんなに急ぐのか分からない。一生分かりたくない気もする。寛太のことは知りたいが、彼の抱える薄暗い部分を暴くことになるのかもしれない。それはとてもおそろしく、今の自分には覚悟が足りない。
 春香の心を揺さぶる寛太の風。走る彼は風そのものだ。

「のろいぞ」
 帰る支度をとっくに終えた寛太が、ぼんやりするなと春香を急かす。あんたは、たまにはぼんやりしろと思う。
「カンタロウが早いんだい」
 言い返すと、寛太の唇がとがった。カンタロウというのは、足の速い寛太を、北風小僧の寒太郎と重ねて付けられたあだ名だ。名誉なあだ名ではないか、なにが気に入らないのか不思議なくらいだが、当の本人はそう呼ばれるのが好きではないようだった。なので春香は、こうやって寛太の口をとがらせてやりたいときにだけこの呼び名を使った。
 ふてくされた横顔。ゆっくり手を伸ばして、頬を指で押してみる。指先へと確かに感じるやわらかな感触に、春香は安心する。顔を引いて寛太が振り向く。
「なに」
「別に。かわいいなと思って」
 寛太は今日一番の苦い顔をして、ふいとそっぽを向いてしまった。

 帰り道を並んで歩く。特に会話などなくても、走っていない寛太は風ではなく、ただの高校生として春香の隣にいるから好きだ。こうしていると、無愛想なだけのふつうの男の子みたいだ。
 冷たくなってきた手先が気になり、寛太を見ると、とっくに手ぶくろをはめていた。渋い群青の、彼によく似合う手ぶくろ。中学生のころに春香がプレゼントしたもので、当初は大きすぎたが、今ではぴったりと彼の手を包んでいる。春香も鞄を探った。しかしそれらしき物はなかなか見つからない。家に忘れてきたのかもしれない。
「なに探してんの」
「手ぶくろ。忘れた」
 呟くと、すぐさま寛太が動いた。
「ばか」
 自分の両手にはめていた手ぶくろを外しながらぶっきらぼうに言う。手袋を差し出す寛太に、春香は悪いからと慌てて断った。
「わたしには大きいよ」
「ないよりましだろ」
 ポケットに隠した春香の両手を寛太が引っ張り出す。冷えた手に手ぶくろが握らされる。まだしぶる春香に、寛太は妙にまじめな顔で言った。
「いいんだよ。俺は手なんか守らなくても。お前の手がなくなったら困るだろ」
 ああ、陸上の話かと納得して、春香は素直に手ぶくろを借りることにした。まだ寛太の体温の残る手ぶくろはあたたかく、春香はふいに切なくなった。
 手ぶくろを付け直した手で、ポケットの中のストップウォッチを握りしめる。熱くも冷たくもない小さなかたまり。そんなものに寛太は夢中で、必死で、そういう寛太が好きなのに、たまにはこちらも見てほしい。
 ひたすら走る北風に、春の香りが届けばいいのに。止まることを知ればいいのに。こちらばかりを見ればいいのに。夢中になってしまえばいいのに。
「またな」
 あっという間に別れ道になり、寛太はためらいもなく簡単な挨拶をして、反対方向へと歩いて行く。手ぶくろをした手を春香は握りしめた。
「寛太」
 どんどん歩いてゆく背中に小さな声で呟いた。もうずいぶん離れた寛太に、春香の声は届かない。寛太は立ち止まらず、あるいは春香の背後から寛太に向かって吹いた北風が、この思いごと届けてくれないかと思う。春香の頬をなでた風が、寛太の短い髪の毛をくすぐる。ばかみたいだと春香は思った。一生懸命な彼のそばで、その背中ばかりを何年もの間見つめて、彼には前しか見えていないのに。一度でも後ろを振り向くはずなどないのに。
 またぼんやりしている。春香はハッとし、手ぶくろをした手で両目をこすった。最後に寛太の背中を見ようと顔を上げる。その瞬間彼と目が合った。うそだと思った。
 寛太は何も言わず、しばらくそのまま春香を見ていた。あまりにも見つめられるので、思わず振り向いて後ろを確認するが、変わったものは何もない。視線を戻せばやはり目が合う。突然のことに、どうすればいいのか分からず、春香は小さく手を振ってみたりなんかした。次の瞬間、はるか、と寛太の口が動く。そんなことで泣きそうになる。叫ぶように寛太が言った。
「それ、気に入ってんだから、明日には返せよ」
 彼が遠くにいてよかったと、春香は初めて思った。手が届かなくてよかった。ふれることのできない風でよかった。近くにいたら、彼を抱きしめているところだ。
 春香の背中を押す追い風。気まぐれに方向を変えて、今度は寛太から春香の方へと吹いたような気がした。
 かたまる春香を置いて、寛太はさっさと踵を返し、行くべき方向へ歩き出す。緩やかにスピードを上げ、最後は走って、曲がり角を曲がった。
 寛太の赤い耳を思い出して、春香は笑った。やっぱり自分は走っている彼が好きで、その背中を見ているのが好きで、別のものに無中で、こっちを向かない彼が好きだ。けれど自由気ままな北風も、たまには春に向かって走ってくるときがある。その少しだけのときを待って、春香はお守りのように、ストップウォッチをにぎっていることにした。



111228



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12月/風が吹いた。



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