だからいつも願っていたのだ。あの人がきみの名前を呼びませんように。

 あの人の恋はいつも恋ではなくて、それはただの執着心だとか独占欲だとかそんなもので出来ていた。愛と呼べば美しいけど、あの人のは違う。少しも綺麗じゃなかった、だから嫌いだった。
 なのにきみは黒髪の綺麗なあの人に夢中。名前を呼ばれれば、それはもう嬉しくて嬉しくてたまらない犬みたいに、あの人に駆け寄っていくことだろう。
 だから僕はいつも願っていた。あの人が、他の誰の名前を呼ぼうと、きみの名前だけは呼びませんようにと。
 それでもきみはあの人に名前を呼ばれることを望んだし、あの人はきみの望むものを与えた。きみが生まれてきたのは僕に出会うためでなかったし、僕が生まれてきたのはきみの小さな手を握るためでもなかった。だから僕はどこにも行けなくなって、そうして、泡になった。静かに水面に浮かび上がって、はじけた。ただ僕がはじけたところで、あたりは少し湿気るくらいで、それ以外は何も変わらなかった。薄れゆく視界の中では、あの人に手を離されたきみが泣いていた。僕はその涙を拭うことすらできない臆病者だった。



-エムブロ-