蓋と穴



 大嫌いな痛みを我慢して彫らせた背中の刺青は、全部をしまい込むための蓋だ。苦しいことも楽しいことも、全部覚えて忘れないように。なくならないように。
 背中のそれが蓋なら、胸のそれは穴だった。ほんの気まぐれで、高校時代の友人が彫り師になりたいとぼやいていたのを思い出し、訪ねて彫ってもらったものだ。本当に彫り師になっていた彼は、休暇中にも関わらずおれのわがままに付き合ってくれた。
 彼とのくだらない会話が痛みをやわらげる。背に彫ったときよりも楽に感じたのでそう伝えると、痛みに慣れただけだと彼は言う。胸に咲いた青い花の名を問えば、デルフィニウムだと答えた。その花の“気まぐれ”という花言葉をきいたときには、似合いすぎて笑ってしまった。けれどそれだけではないらしい。
「もうひとつの花言葉」
「うん」
「あなたは幸福をふりまく」
 また笑ってしまった。今度は似合わなさすぎて。
「おまえはいつも笑ってるから」
「はは…」
「救われる人間がいるよ」
 彼がおれの頬をつねる。寝転んだままのおれは見上げるように彼を見た。変な顔をしていたのか、彼は少しだけ笑った。
「うその笑顔だって幸せだって、何でもいいからふりまいとけよ。おれみたいにぼうっとしてるよりずっといいよ」
 そんな風に、悲しくて優しい顔で笑う人間をおれは他に知らない。一番苦手な表情で、ずっと忘れられない、一番好きな表情だ。
 気まぐれで思い出したりするはずない。本当は高校のとき、こいつが彫り師になりたいともらした瞬間から、おれはそのことばかりを考えていた。こいつがおれに消えない穴をくれる。揺るがぬ希望をしるしてくれる。今まで何があっても生きてこられたのは彼がいたからだ。彼に会うたびおれは生きていたくなる。これからもきっと、どこかで支えられて生きていくのだろうと思う。その悲壮に満ちた顔を見ながら。
 なくなることを恐れるばかりに、さんざん縋り捕まえてきたはずの記憶がこの胸に蓄積し、混ざり淀んで満ちていた。胸に咲いたばかりの青い花、彼があけた小さな穴から、ゆっくりとこぼれ落ちていく。



110810



-エムブロ-