いのりのうた



 なにが悲しいわけでもないのに、泣きたくなる夜がある。わたしはそれが苦手で、けれど嫌いではない。たぶん夜がなければ生きられないのだろうと思う。
 無性に淋しくてなかなか寝付けない夜は、イノリの歌を聴いて眠ることにしている。イノリの歌声はわたしを怖いほど安心させ、同時に興奮もさせた。ヘッドフォンから流れ込む音楽に集中する。祈るように歌うイノリの声に、涙があふれそうになる。
「矛盾してるよね」
 ふいにヘッドフォンが奪われ、わたしは顔を上げた。濡れた髪の毛をタオルで乱雑に拭きながら、イノリがわたしを見下ろしている。何度も染められて痛んだ髪の毛だ。
「そうかな」
「うん。クミはいつもそう」
 イノリは一瞬だけへらと笑った。まだ乾ききらない髪の毛でベッドに潜り込み、気にせず枕に頭をつける。いやな顔をしたわたしを見ても、気にせず口角を上げた。
「本人がここにいるのに、なんでわざわざ録音された音を聴くの」
「むなしくなりたいから」
「どうして」
「むなしい方が淋しくないの」
 ふうん、と言うイノリの顔は腹が立つほど楽しげだ。
「今はどんな気持ち?」
 こちらへ伸びてきたイノリの指先が、わたしの頬へ少しだけ触れた。温かくて、心地よくて、この指が離れるときを思うととてつもなく淋しくなった。わたしは黙って彼の顔を見ていた。

 イノリは歌でごはんを食べている。それはものすごいことだとわたしは思う。けれど当の本人は、そんなのはくだらないことだと言う。
「おれはギリギリで食べてるけど、クミは安定してるでしょ。毎日働いて、毎月お金をもらうでしょ。それってすごく大事なことだよ」
「そうかな」
「大事じゃないことなんてあまりないよね」
 そうやって笑うときのイノリの顔がなによりも好きだ。希望とあきらめに満ちた、矛盾した瞳だ。その瞬間、わたしはイノリに触れたくてたまらなくなって手を伸ばす。彼はぴくりとも動かずにわたしを見ている。イノリの、大きな世界を見つめていた目が、今はわたしだけを写す。そのことに感動している。撫でたイノリの髪の毛は、やはり痛んでぱさぱさだった。それがやけに心地よかった。



110711



-エムブロ-