きいろ食堂



 いつも通る道なのに、川の反対側だというだけで、全く景色が違って見えた。昔から町を流れているらしい、大きくはないがきれいな川沿いの道だ。なんとなく歩いてみた反対側、たまたま見つけた店の前で楓は足を止めた。
 二階建ての小さな赤い建物。古びた看板に「きいろ食堂」とあるが、備え付けのベランダでは洗濯物が風になびいている。ひと降りきそうな天気だが大丈夫だろうか。近所だからと自分も傘を持たずに出てきたくせに、そんな心配をしてしまう。
 しばらく眺めていると、ちょうどおなかがすいていたような気分になり、ふらりと近づいた。入り口にある営業中の札を見て安心し、小さな庭を見渡してみる。よく手入れされた庭には、所せましと様々な花が咲いていた。その中に知っている花を見つけ、嬉しくなって顔を寄せたのと同時に、ガラリと扉の開く音がした。中から顔を出した男の子と目が合う。黒い髪のきれいな、背の高い人だが、顔はまだ幼い。
 彼は楓を見てずいぶん驚いたようだった。自分が何か、してはいけないことをしてしまったのかと不安になる。しばらくそのままでいると、ふいに彼の表情が和らいだ。
「気に入った花がありますか」
「ええと、木蓮が」
「ちょうど咲いたばかりです。いい香りですよね」
 言われて、自分が木蓮に顔を寄せていたのを思い出し、急に照れくさくなって一歩下がる。男の子はやわらかな顔で笑った。それだけで、彼がこの庭の手入れをしているのだろうかと思わされるような笑い方だった。それも、とても大切に。
「もしかして、今から食事を?」
 質問に楓が頷くと、今度は少し残念そうな顔になる。
「ごめんなさい。今日の営業は終了したんです。祖母の体調が優れなくて」
 言いながら、男の子は営業中の板をひっくり返した。楓の鼻の頭に、最初の雨が落ちてきたのと同時だった。降り始めた雨は一気に勢いを増し、あまりの唐突さに二人はしばらくぽかんとしていた。
「あ、洗濯物」
 楓が呟くと、男の子は「いけない」と目を丸くし、あわてて中へ引っ込んだ。洗濯物を取り込みに行くのだろう。傘を持っていない楓は、しばらく入り口の前で雨宿りをさせてもらうことにした。おそらく夕立なのですぐに止むだろう。
 何気なくベランダを見上げると、慣れた手つきで洗濯物を取り込む男の子が見える。目が合うとぺこりとおじぎをした。単純にかわいいな、と思う。楓の弟が彼ぐらいの年のころは生意気で、かわいさのかけらもなかった。進んで家の手伝いなど、今でもしたことがないんじゃないだろうか。
「あの」
 ぼんやりしていたら、ふいにまた扉が開けられた。洗濯物を取り込み終えたらしい男の子が楓の方を見ている。
「中で雨宿りされますか」
 嬉しい申し出だった。このままでも雨はしのげるが、守りきれない足下がどうしても濡れてしまう。
「いいの?」
「はい。多分、すぐに止むと思いますけど」
 言葉に甘えて中へ入れてもらう。まだ残る食べ物の香りと同時に、なんだか懐かしいような匂いがした。住んだこともないのに、懐かしいだなんておかしいような気もする。木造の建物の中は薄暗く、雨の音がよく聞こえた。
「どうぞ、座ってください」
 すすめられた椅子に座る。中は外観通りそんなに広くはないが、どうにも落ちつく空間だ。今度は営業中のときにこようと決意する。
「僕は片付けをしていますから」
 楓は頷く。ありがとうと言うと、いいえと笑った。なんて安心する笑顔なのだろう。きっとわたしより若いのに、と男の子を見ながら思う。大きくても高校生くらいだ。固くしぼったタオルで手際よくテーブルを拭いていくのを、飽きもせずに眺めていたら、ふいに彼が顔を上げて目が合った。
「あの、」
 男の子の顔は赤い。いたたまれないような、そんな表情に見えた。眺めていたことを指摘されるかと思ったが、彼の口からは楓の予想しない言葉が出てきた。
「間違っていたらごめんなさい。夕方よく、川の反対側を歩いていますよね」
「え」
「庭の花に水をやる時間と、ちょうど同じころなんです。それで、あなたが向かいの木蓮を眺めているのが見えて」
 たしかに楓は、いつも川沿いの歩道を歩いて大学に通っていて、そのたび木蓮を眺めるのもいつからか習慣になっている。ちょうど向かい側だとは知らなかった。
「そのときの顔がすごく優しいから、ここにも木蓮が咲いていることに、気付いてほしかったのかもしれません」
 男の子は自然に楓から目をそらす。つられて同じ方向に目をやると、濡れた窓からぼんやりと木蓮が咲いているのが見えた。雨の音に満ちた、薄暗い室内で、思い出すように彼が笑う気配がする。
「だからさっき、とても嬉しかったんです」
 楓は返事につまった。まさか知らぬところで、自分の存在を認識されているとは思いもしなかった。それで、入り口であんなに驚いた顔をしていたのかと納得する。
「よければ、名前を教えていただけませんか」
 楓は迷ったが、冷静な口調は崩さないくせに、今にも目を回してしまいそうな彼の表情をちらりと見ると、すぐに負けて笑った。
「ハナです。カエデと書くから、よく間違われるけど」
 はなさん、と男の子は嬉しそうに復唱する。似合ってます、と言われ楓はなんだか妙に照れくさい気持ちになった。
「僕は、紀に色と書いて、きいろと読みます。先に名乗るべきでした」
 ためらいがちに、言いにくそうに、彼は言った。看板に書いてあった名前を思い出す。
「それ、お店の」
「そうです。元は祖父の名前なんですが、僕が生まれる前に逝ってしまったので、祖母がどうしてもとこの名前を」
 紀色は、店と同じ名前なのが恥ずかしいのか、しきりに鼻の頭をかいている。さっきも拭いたテーブルをもう一度拭き直した。
「この店はおばあさんと二人で?」
「はい。休みの日はずっと手伝えるんですが、学校のある昼間はどうしても祖母がひとりで」
「大変だね」
「そう思います。あまり負担をかけたくないのに」
 紀色の動きが止まってしまった。
「すみません。こんな話」
「いや、おばあさんは幸せだね」
「そう思いますか?だったら、嬉しいです。育ててくれた人ですし、一応、名付け親でもありますし」
 ふにゃ、と紀色は笑った。さっき外で見た、花を慈しむような顔とよく似ていた。好きなものに対して、こんなにも素直に感情を表す紀色は、見ていてとても気持ちがいい。
「庭の花はおばあさんの趣味?」
「始めたのは祖父です。それを祖母が受け継いだんですが、あまり性に合わなかったようで、今は僕が」
 やはり、花の話をする紀色もとても幸せそうだ。いつかこんな表情で、彼が楓の話を誰かにしてくれるような日がきたら、とても嬉しいだろうなと思う。想像するだけで幸せな気分だ。同じハナなのだから、ありえない話でもないような気がして、こっそりと笑った。そんなことは知りもせず、唐突に紀色が言う。
「はなさん、木蓮の花が散るのを見たことがありますか?」
 ないと答えると、紀色の声色が軽く興奮するように、高く、早口になった。
「感動しますよ。風もないのに、あるとき突然、一気に花びらが降るんです。一度だけその瞬間を見たことがあるんですけど、本当にきれいで。ひとりで見たのが悔しいほどで」
 それだけ言い終わると、とたんに勢いをなくし、今度はやけに小さな声で言う。
「四月の、おわりころなんですけど…」
 それならきっとすぐだ。返事をしようと顔を上げると、うかがうようにこちらを見ている紀色と目が合った。紀色は少しびくりとしたが、もうその視線を逸らそうとはしない。真っ赤な顔で、まっすぐにこちらを見る紀色の目が楓に、またきてくれるかと問うていた。そんな紀色を、急にとてつもなく愛おしく感じて、楓は思わず声を上げて笑ってしまった。もちろんぜひ、と返事はやはり視線で返す。泣き出しそうな顔をして、紀色は楓の目を見ている。



110814



fish ear提出
7月/同じ響き



-エムブロ-