聞かせて



 屋上の錆びたフェンスによじ登り、そのてっぺんで、「生きたかった」と吉岡は言った。初めて見た彼の涙と、吐き出された本音が僕の全身にのしかかり、簡単に押しつぶされてしまいそうだった。

 計算や暗記の苦手な吉岡は、昔からからかわれることが多かった。並外れに能天気で、何をされても笑って許す。自分に不利なことにも気づいていないようにすら見えたし、実際にへらへらとした笑みを絶やさない男だった。
 当時クラスの委員長をしていた僕は、いじめに近い扱いを受けていた吉岡を、単純に救いたいという気持ちで近づいた。けれど彼の抱える闇は、想像以上に深く膨大だった。その片鱗に触れただけで、僕は怖じ気づいた。彼の全てをこの目で見てしまえば、取り返しがつかなくなる気がした。だから僕は話を聞く姿勢だけして、内容など聞き流してしまうつもりでいたのだ。それなのに吉岡の、低くてゆったりとした声は自然と耳から流れ込み、僕の全身に染みわたる。彼の語る一言一句を、この脳は記憶していた。
 毎日話を続けるうちに、僕は吉岡に惹かれた。一度拒絶に失敗すると、今度はどうしようもなく惚れ込んでしまった。
 勉強はできなくても、彼は全てを知っていた。周りの現状や心境を誰よりも理解し、その上で、彼は笑い、ゆるそうとしていた。そんな吉岡は誰よりも頭がよく、同時に救いようのないばかだった。
「どうして吉岡は笑うの」
「悲しい顔よりいいでしょう」
 つらくないのかと問えば「幸せ」だと言う。生きていられて幸せだと、それだけで十分だと笑って言うのだ。彼と話していると、時々、頭がおかしくなりそうだ。僕には分からない。
「生きているからこそ、悲しいことがあるだろう。苦しいことも、叫びたいこともあるだろう」
「たくさんは覚えていられない。いまが悲しくないならそれでいい」
「僕が吉岡だったら気が狂ってる」
「じゃあぼくがぼくで、早苗くんが早苗くんでよかったね」
「吉岡」
 雨上がりの屋上は湿って、塗装のはげたフェンスに無数の水滴が光る。空を見ている吉岡の腕を僕は掴んだ。吉岡がこちらを向き、確かに目は合うのに、彼には僕が見えていない。彼の目は一体どこを見ているのだろう。楽しかった過去か、希望に満ちた未来か、もしくは何も見ていないのかもしれない。彼も目を逸らしているんだ。見えないふりをしているんだ。生きるために必死なんだ。そうだと言ってくれ。
「早苗くんが好きだよ」
 僕が口を開く前に、吉岡が言って、僕は固まった。
「早苗くんも、先生も、クラスのみんなも、ぼくは好きだよ」
 相変わらずどこを見ているのだか分からない目で、吉岡はフェンスを眺めている。かと思えば、唐突に僕の手を振り払い、吉岡は走った。するすると器用にフェンスをよじ登り、ついにてっぺんで止まる。老朽化の進んだフェンスに、男二人を支える強度はなさそうだ。彼が動くたびに水滴がちるちると落下するのを、なすすべもなく僕は見ていた。
「生きたかった」
 フェンスのてっぺんから、深い穴の底を覗くみたいにして吉岡は言う。
「幸せだけでぼくは生きたかった」
 不安定な彼の心は、吹きすさぶ強い風に揺れた。吉岡がいつフェンスの向こう側に落ちてもおかしくない状況で、僕は不思議と穏やかに、彼の鉛を受けとめていた。握りつぶされるような心とは裏腹に、間近にあるはずの彼の死が、僕には全く見えていなかった。
「早苗くんは誰が好き?」
 吉岡が問う。その質問を待っていたかのように、すぐさま僕は答えた。吉岡が好きだ。
 次の瞬間、吉岡は飛んだ。同時にフェンスを離れたたくさんの水滴が光って、きらきらしていた。空に向かって伸ばした僕の両手に、吉岡は全部で落下した。受け止めきれるはずもなく、濡れたコンクリートに転がる。仰向けの僕に覆い被さるように吉岡は泣いた。どうしても生きたいのだと、僕の目を見て叫んだ。
「かわいそうなやつだと、思わないで」
 こぼれた言葉はふにゃふにゃになった吉岡の中身だ。思わない、とだけ答えると吉岡は下手くそに笑った。彼の背後で、雲に隠れてぼんやりと発光する太陽は、まるで彼そのものだ。眩しいな、と口に出して言う。吉岡の目の中に僕がいることに、僕は感動している。



110326



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3月/ぼくの太陽



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