そんなはずはない



 弟は言わないが、このところ耳鳴りがひどいのだと思う。こちらが話しかけても反応をしないし、大声で呼んでも叫んでもどこを見ているのだか分からない目でひたすら前を見ている。
 弟は学校に行っていない。代わりにいつも部屋の隅でぶつぶつ言ってる。何を言ってるかは知らない。そんな弟に朝食を食べさせるのは兄であるおれの役目だ。食事を目の前にしても弟はぼんやりしている。しかたなくスプーンに乗せた食事を、片手でこじ開けたくちに運ぶ。
「しっかりしろよ、お前。おれの弟なんだろ?」
 弟の口から食事がこぼれる。それを拭いながら、なぜか自分が情けないような気持ちになった。
「親にも見捨てられてさあ、おれがいなかったらお前なんか」
 肩からずり落ちたTシャツ。浮き出た鎖骨がいかにも不健康で、長い前髪の隙間からのぞく目の下にはくっきりとひどい隈がある。
「どうなるんだよ…」
 死ぬの?
 死という言葉にも弟はまったく反応せずやっぱりただ前を見つめてぶつぶつと何かを呟いていた。こいつの手足、こんなに細かったかなあ。
「うっ」
 吐き気がこみ上げる。部屋のなかに、とつぜん死のにおいが充満したような気がした。涙があふれて、耳の奥から、きいん、と耳鳴りがする。おかしい。思い出せない。今目の前でぶつぶつと喋っているはずの弟の声が。こいつはどんな声でおれを呼んでいただろう。お兄ちゃんと、昔はたしかに、そう言ったのに。
 ああ、おれの耳はおかしい。最近、弟と同じ耳鳴りが聞こえている気がする。



110223



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