アルファ8



 鍋で牛乳を温めながら、湯気に両手をかざす。足を冷やしてはいけないから、と宝くんがくれたスリッパは、わたしには少し大きい。
 ぱかぱか鳴らしながら暖かい部屋に戻り、二人分の飲み物をこたつの上に置いた。眠っている宝くんの隣にもぐり込み、冷えた両足を彼の足にくっつけるが、身じろぐだけで起きはしない。
「風邪ひくよ」
 宝くんの足から体温を奪って、わたしの足は温かくなる。答えない宝くんにじれて、わたしはひとりでココアを飲んだ。テレビの音量を下げようと、リモコンを目で探すと、テーブルの上に置かれた本が目に入った。宝くんがまだ起きる気配がないのを見てから、それをそっと手に取る。
 宝くんは、いつも分厚くて小難しい本を読んでいる。読みかけの本をめくっていくと、昔わたしがあげた三つ葉のシロツメ草がしおりの代わりに挟まれていた。思わず口元が緩む。いつかの公園で、見つからなかった四つ葉の代わりに、何気なく渡した三つ葉だ。そんなものを大切そうにしてとっている宝くんが愛おしくなる。手を伸ばして、柔らかな髪の毛に触れた。出会ったころはぼさぼさで、何の手入れもされていなかった髪だ。
「なに、どうしたの」
「あ、起きた」
「おはよ」
 寝起きの宝くんはみの虫のように身じろぐ。撫でていた手が離れていくのを、名残惜しげに見ている。
「おはよう。月がきれいだよ」
 しばらくぼうっとわたしを見たあと、宝くんは寝ぼけたまま、窓の外を見もしないで「本当」と呟いた。それからやっと首を回して窓に目をやり、遅れて「うわ」と驚く。
「まんまるだ」
「満月だって」
「へえ」
「眠いの」
 のぞき込むように問いかければ、困った顔で目をこする。
「眠ろうか」
 重ねて問いかけると、「ココアを飲んでからにする」と言ってもぞもぞと起き上がった。
「いいにおいだ」
 そうしてふにゃりと笑う宝くんと目があって、とうとつに、泣きそうになる。

 ふたりでココアを飲み干して、すぐさま布団にもぐり込む。しばらく遠慮していた宝くんだが、寒さに負けてすぐに隣に並んだ。彼がうちに泊まるのは初めてだ。近所で洗濯機が動いてる音がする。布団の中でそれを聞いているのは、なんとなく落ち着く。
「いつもこんな時間にしてるの」
「時々ね。うるさい?」
「落ち着く」
 同じことを考えている。わたしがくすりと笑っただけで、宝くんにもそれが分かったようだった。
「寒くない?」
「うん」
 たあいもない会話を繰り返す。宝くんは相変わらず眠そうで、いつ眠ってもおかしくないほどうとうとしている。目が開いている時間より、閉じている方が長い。疲れているのだろうと思う。なんとなく淋しくなって、布団から出ていた宝くんの手に触れた。小さくびくりとして目を開く、宝くんから目をそらしたくなる。
「来年がこなければいいのに」
 わたしの言葉に、宝くんは唇をかんだ。何とも言えない顔をしていた。わたしはやるせない気持ちになり、すぐさま後悔に飲まれた。
 彼ががんばる姿を、ずっと見ていた。夢が叶えばいいと思っていた。心から応援していた。なのにいざ別れが近づくと、永遠に会えないわけでもないのに、やはり淋しい。たまらない。もうすぐ年が明けて、春になれば、宝くんは遠くへ行ってしまう。それでも、言ってはいけなかった。わたしの方が大人だ。支えなくてはいけない。がんばっている宝くんを。
 うそよ、と言おうとしたけれど、喉の奥が熱くて、いま声を出したら嗚咽が漏れてしまいそうだ。何も言えないわたしを、宝くんはただじっと見つめている。見つめているだけだ。
「おれは、もっと早く時間が過ぎればいいと思ってる」
 ふいに口を開いたかと思うと、吐き出すように一気に言った。
「来年になって、再来年になって、もっともっと過ぎて、いつでも花代さんと会えるようになればいいと思ってる」
 触れていただけの手に、力が込められる。痛いぐらいの力だ。
「ずっと思ってるよ」
 近所の洗濯が終わる。室内に静寂が戻る。時計の針が動く音。暗闇に慣れてきた目が、宝くんの輪郭をはっきりとさせる。ふるえる声の宝くんは、やはり困ったような顔をして、わたしの少し向こうを見ている。
 そのまま、手をつないで、次の日の昼間まで眠った。



 111004



-エムブロ-