僕は二度死んだ



 凍えるほどに寒い冬の海で、僕は死んだ。頼りない月明かりだけが照らす海中は何も見えなくて、息も出来なくて、僕の心臓は実にあっけなく止まった。
 けれど僕は生き返った。顔も見えないほど遠くから、誰かが僕の名前を呼んだ。僕はその声をたしかにきいた。その瞬間、僕はまた呼吸をしていた。
 僕を助けた誰かは、ありがとうと礼を言った僕に鋭利なナイフを向けた。意味が分からなかった。
「僕を殺すんですか」
「そうなるかもしれない」
「助けてくれたのに」
「きみには赤が似合うと思ったんだ」
「あか?」
「赤だよ。水死よりも、赤が似合うと思った。すごく」
 にっこりと笑った男の、病的に白い腕がこちらに差し伸べられた。この手を取ったら、僕は殺されてしまうんだろうか。死を目前にしながら、不思議と恐怖は一切感じなかった。もしかしたらここはすでに天国なのではないかとすら思った。
「あなたは誰?」
 僕はきいた。
「きみは誰だ?」
 男が尋ねた。
「僕は…」
 僕はだれだ?
「僕は人間です」
「あたりまえだろ」
 男は笑った。僕はまた泣きそうになった。何かがとても苦しいと思った。「はやく殺してくれ」
 僕は、ナイフを構える男の手を掴んだ。少し前に、深い海の中で、男の熱い手が僕の腕を掴んだように。数秒後には、僕の腹には鋭利なナイフが埋まっていた。男はやはり笑っていた。こうして僕は二度目の死を迎えた。

 死んだはずの僕は、けれど目を覚ました。僕は天国でも地獄でもなく、小さな病院の一室にいた。腹には深い切り傷があったが、それはすでに治りかけていた。僕は空しくなってまた眠った。目を覚ますたびにまた眠った。誰も僕に会いにはこなかった。
 そうして何度目かに目を覚ましたとき、初めて人の気配を感じた。あり得ないことだと思った。僕のためにリンゴを剥いていた知らない誰かは、僕が目を覚ましたのを見ると困ったように笑った。
「あいつは頭がおかしくなっていた」
 男が持っているナイフは、あの夜に僕の腹に突き立てられたものと、少しだけ似ていた。ぞくりとした。
「昔は普通のやつだった、だけどおかしくなった。あいつはいじめられてた」
「…」
 いじめられて気が狂う?そんなことがあり得るのか。僕は少し考えたけど、答えはすぐに出た。あり得る。現に僕は海に飛び込んだ。自ら死のうとした。少なくとも正常な人間はおおよそしないようなことをした。僕だって頭がおかしいのだ。
「普通って何なんでしょう」
「むずかしいことだよね」
 喉の奥が熱い。目の前がかすんで、さっきまで見えていたものの輪郭がなくなっていく。そうして僕の脳内に浮かんでくるのは、笑って手を差し伸べているあの男の顔だけだった。
「僕は生きているんですね」
「生きているよ。奇跡的にね」
 じわじわと記憶が戻る。嫌な記憶だ。出来れば忘れたままでいたかった、だけどそれじゃ駄目なんだ。世の中には、忘れちゃいけないことがたくさんあるのだ。
『なんでまだ生きてるの?』
 いつか誰かに言われた。温度のない言葉だった。なんで?そんなの知るか。じゃああんたはなんで生きてるんだ。なんでみんな、生きてるんだ?

 誰かの剥いてくれた林檎を食べながら、次にあの男に会えるのはいつになるだろうと考えた。いくら考えても、はっきりとした答えは出なかった。もしかしたらすぐかもしれないし、まだ何年も何十年も先かもしれない。会えないかもしれない。何にしろ僕は、その時がくれば笑って手を差し伸べてやろうと思った。「ばかだなあ…」
 一人になった病室で、誰にともなく呟いた。花瓶にさされていた薔薇を手に取る。力を入れたつもりはなかったが、薔薇は僕の手の中であっけなく形をなくした。気の狂いそうなほど甘いかおりが、ゆらりゆらりと、室内を満たしていく。



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