星よりも遠い



 近所に新しく建てられた水色のアパートがあって、バイトの行きと帰りに何となくそれを眺めるくせがついた。十二月も半ばになってからはイルミネーションで光るトナカイなんかがいたりして、駐車場の黄色い車にも冬らしいステッカーが張られている。
「クリスマスまでバイトなんて淋しいやつ」
 二十五日の土曜日、リビングで朝食を食べていたら、珍しく早起きをした姉と鉢合わせた。バイトの準備をした僕を見るなりからかうように言うので、うるさいな、と返す。
「姉さんはでかけるの」
「素敵な彼とデートだからね」
「晩ごはんは?」
「いらない。帰らないかも」
 ふうん、と呟いて会話は終了する。食べ終えた僕とほぼ入れ替わりで、姉は朝食を用意して席についた。トーストを頬張る姉を背に、食器を洗う。水は刺すように冷たい。冷たいと言えば、今読みかけの本がちょうど冬の海の話だった。続きが気になるので、帰ったらすぐに読もうと思う。

 この頃、姉に笑顔が増えたのは素敵な彼とやらのおかげだろうか。そんなことを考えながら家を出て、バイト先のカフェに向かう。徒歩で十五分程度だ。
 そもそも僕には昔から、クリスマスがさして特別な日であるという認識がなかった。そのためなぜみんなが何日も前から予定を立てて、家族や恋人や友人といたがるのか分からないし、一人でいつも通りに過ごす静かな夜を、淋しいと言われる理由も分からなかった。一番身近なはずの姉はイベントや記念日に人一倍敏感で、もしかすると僕は、彼女のことを誰よりも理解できずにいる。
「助かるよ。クリスマスはみんなバイト入れたがらないから」
 店につき、着替えていると店長が言うので「僕、元日でもこれますよ」と答えた。
「元日は俺が休みたいよ」
 店長はおかしそうに僕の肩を叩いたが、笑わせるつもりはなかった。僕は働くのが好きだ。
「でも本当によかった。斉藤さんもギリギリで入ってくれたし」
「きてるんですか」
「ああ、買い出しに行ってる」
 斉藤さんは、僕が入ったばかりの頃からずい分お世話になっている先輩で、同じ大学の先輩でもある。
 買い出しから戻った斉藤さんは、僕がいるのに気付くとふにゃりと笑って手を振った。小さく振り返すと、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ね、このあと誰かと約束ある?」
「いえ、約束は」
「二人で飲みにいかないかな?」
 僕は少し考えたが、やはりあの本の続きが気がかりだ。
「すみません、今日は読みかけの本があるので。明日なら…」

 バイトが終わり、家に帰る道すがら、水色のアパートと、ピカピカのトナカイと、斉藤さんについて少し考えた。あの後どうにも斉藤さんがよそよそしい気がしたのだか、気のせいだろうか。明日は斉藤さんに用があるそうで、飲みに行くのは延期になった。斉藤さんはいつも笑顔で、水色のアパートがよく似合う。駐車場の黄色い車も、斉藤さんのものだと言われたら納得しそうだ。
 いつの間にか水色のアパートの横まできていた。上を見上げる。夜の空には星がいくつかと、今日もピカピカのトナカイがいた。なんだかとても近くに見えて、手を伸ばしそうになるのを我慢する。
 しばらく歩くと、家の電気がついているのに気付いた。姉は帰らないと言っていたので、朝からつけっぱなしになっていたのかもしれない。しかし玄関の鍵は開いており、リビングの椅子にはうなだれた姉が腰かけていた。
「ただいま」
「おかえり。遅いよ」
「素敵な彼はどうしたの」
「別れた」
 何でもないように言ってはいるが、その声があまりに落ち込んでいるので、俯いている頭をぽんぽんと撫でた。いつもより少しだけめかし込んだ姉の肩が震える。
「カフェラテ飲む?」
 僕の問いに、姉は首を横に振った。けれど暖房もつけない室内で体の冷えた姉はどうしても今すぐにそれを飲むべきだと思ったので、僕は二人分のカフェラテを用意し始めた。
「あったかいやつだよ」
「…」
「お砂糖とミルク、いっぱい入ったやつだよ。カプチーノにしようか。僕、泡立てるの上手くなったんだ」
「飲む」
 我慢できなくなったように頭を上げた姉の顔はぐしゃぐしゃで、僕は笑う気になれなかった。
「とりあえず、顔洗ってきたら?」
「バカ」
 姉が言うには、僕はこういうところが無神経でマイペースだから、いつまでも彼女ができないそうだ。僕に恋人ができない本当の理由は僕だけが知っている。
 ぶつぶつ言いながらも姉は洗面所に向かい、数分後、さっぱりした顔で戻ってきた。
「せっかくお化粧がんばったのになあ」
「いいじゃん。その服、似合ってる。きれいだ」
「姉を口説いてる暇があったら女の子でも口説きなさいよ」
「口説いてるつもりはないよ。それに姉さんだって女の子だろ。はい、カプチーノ」
 あんたってほんとにバカね、と言いながらマグカップを受け取った姉はにこにこしながらカプチーノを一口飲んで、長いため息をついた。
「おいしい。よかった、あんたに彼女がいなくて」
 冗談めかして言う姉に、ありがとう、と僕は答えた。姉は声を上げて笑って、それから少しだけ泣いた。初めてのことではないのに、僕はみっともなくうろたえて、あれほど続きが気になっていた本の内容も吹き飛んでしまう。姉がこうして、僕の前で悲しむ限り、僕には恋人ができない。



101219



joie様提出
12月/清らに星すむ今宵



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