遠くに犬



 開け放した窓の外でしきりに鳥が鳴いている。僕は昨日買ったばかりの薄緑色のカーペットの上に寝転んで、その声に耳を傾けていた。背中に当たる日差しが気持ちよく、もう十二月だというのに、窓から入り込む風にも肌寒さを感じない。こんな日が毎日続けばいい。
 ふいに携帯が鳴る。大学のクラスメイトからだった。
「もしもし、小辻?」
「うん」
「鍋したんだけど、食べにこないか」
 柏尾の申し出は魅力的だったが、僕はしばらく悩んだ後、買ったばかりのカーペットが気持ちよすぎるから行かない、と答えた。「じゃあ俺が行く」と柏尾は言い、数十分後にはインターホンが鳴った。戸を開けてやると、両手にミトンをして土鍋を抱えた柏尾が慎重に靴を脱いで入ってきた。
「こぼさないように細心の注意をはらった」
 褒めてほしそうに言うので、えらいね、と僕は言った。柏尾は満足げに笑い、鍋をコンロの上に置き、右手のミトンから外した。僕はそれを見届けてから、カーペットの上に戻る。太陽の位置が変わって、日差しが少なくなってきている。柏尾もとなりに寝そべった。
「たしかに気持ちいい。色もきれいだ」
「芝生みたいで落ち着くだろう」
「うん。芝生みたいで、落ち着く」
 背の高い柏尾の足先はカーペットからはみ出していた。柏尾のところには日も当たっていない。僕は気付かないふりをしてカーペットに顔をうずめる。
「今日は何してた?」
「こうしてた」
「幸せだね」
「鳥がいっぱいいるんだ」
「見たの?」
「聴いてた。ずっと」
 ふうん、と柏尾が言う。テーブルの上の板チョコをパキ、と折ると、こっちにひとかけら寄こした。面倒なので口で受け取る。柏尾もひとかけら食べたけど、もともと柏尾が置いていったチョコなので、「勝手に食べるな」とは誰も言わない。
「お腹すいてる?」
「あんまり」
「俺も。六時になったら食べよう」
「何鍋?」
「鶏だんご」
 旨そう、と答える。ちょうど鶏肉が食べたかったところのような気がした。
「眠い?寝る?」
 うとうとしている僕の顔を覗き込んで、柏尾が言う。僕はというともう声を出すのも億劫なほど急激な眠気に襲われていたので、返事をしなかった。六時になれば柏尾が起こしてくれるだろう。
「おやすみ」
 柏尾は優しい。優しい柏尾は寝ている僕の髪の毛を撫でる。そういえば、実家で飼っている犬に似ていると言われたことがある。ミニチュアのダックスフントだそうだが、僕の背はそれほど低くない。

 太陽が動く。日の当たる場所はもう部屋のずっと端に移動してしまって、カーペットには当たらない。一度小さく身震いすると、すぐさま毛布がかけられた。干したばかりだからいい匂いだ。干した布団のこの匂い、小さなころは太陽の匂いだと思っていたけれど、実際は焼けたダニの匂いだそうだ。柏尾から聞いたこと。
「寒くないの」
「俺は大丈夫だよ」
 うっすら目を開ける。柏尾は本を読んでいた。本なんて一冊もなかった僕の部屋に、大量の本と、それに見合った本棚まで持ち込んだのも柏尾だ。
「ご飯にしようか」
 本にしおりを挟んで顔を上げ、僕と目が合った柏尾は嬉しそうに笑った。頷いた僕を見て立ち上がり、甲斐甲斐しくキッチンに向かう。僕はもう一度カーペットに顔をうずめた。
 最近は、もしかすると柏尾はゲイで、僕を狙っているのではないかという噂を耳にすることがある。しかし実際の柏尾には遠くに住む恋人がいて、本人から聞いた話によるとその恋人は年上の女性であり、ふたりの付き合いはもう八年にも及ぶ。黒髪で、料理が下手で、絵が好きで、毎日絵の具まみれな人なのだと語る梶尾は心底嬉しそうだった。
 会えない淋しさから僕の家に入り浸るのかと思ったが、柏尾がその口から「淋しい」と言ったことは一度もない。どちらかと言えば僕の方がその言葉をよく口にするので、柏尾はそれに気をつかってくれているだけなのかもしれない。
 キッチンからいい匂いが漂ってくる。ぐつぐつという鍋の音。いつの間にか窓が閉められていた。鳥の声はもうしないが、かわりに近所の住宅で飼われている犬が吠えているのが遠くに聞こえた。

 鍋は非常においしかった。居酒屋で働いた経験のある柏尾は料理がうまい。僕は特に彼の作る唐揚げが好きで、何を食べたいかと聞かれたら、それを答えることが本当に多かった。
「お風呂入る?」
 食べ終わり、食器を洗っている柏尾の背中に問いかける。洗い終わった食器を乾燥棚に並べながら、柏尾が「いいの?」と返すので、「柏尾がよければ」と僕は答えた。嬉しそうにする柏尾をキッチンに置いて、タンスからバスタオルと彼のパジャマと下着を取り出す。
 柏尾の風呂は短く、僕もそれほど長くはないので、風呂の時間はあっという間に終わる。食事が終わり風呂も済ませれば、あとは自由な時間だった。この時間を柏尾と過ごすときは、映画を観ることが多い。それぞれで本を読んだ日もあったが、どうにも僕は活字が苦手だ。この日も映画を二本観た。
 昔からのくせで、夜は電気を元から消して眠ることにしていた。豆電球は使ったことがなく、カーテンも閉め切るので、いつも真っ暗だ。
 並んで布団にもぐり込み、おやすみと言い合った直後に、柏尾が僕の名前を呼んで、小さな声でしゃべり始めた。
「好きな人が笑ってるのは嬉しいことだよね」
「うん」
「小辻は、それが自分に向けられた笑顔じゃなくても、幸せだと思える?」
「さあ…どうだろ」
「俺は思えないんだけど、それって、心が狭いかな?」
「分からないけど、柏尾はすごく優しいと思う」
「優しい?」
「ごはんを作ってくれるから」
「趣味だよ。好きじゃなかったらやらない」
「他人は知らないけど、少なくとも僕にとって、柏尾はいいやつ」
 少ししてから、そうか、いいやつか、と柏尾は笑う。しばらく笑い続けていた。
「俺、小辻に嘘をついてる」
 それから唐突に、梶尾は言った。
「本当は付き合ってない。八年間は、片思いの時間」
「へえ…」
「俺には姉がいるんだけど」
 今まで一度も語ったことのない姉について、黒髪で、料理が下手で、絵が好きで、毎日絵の具まみれな人なのだと柏尾は言った。僕は返事に詰まった。
「やっぱり変かな。迷惑かな。やめた方がいいかな。来月結婚するんだって。もう望みないよね?」
 暗闇で、柏尾が泣いていると思った。それがたまらなく淋しいことのように感じて、僕は咄嗟に布団から出て、電気をつけた。
「変じゃない」
 枕に顔をうずめる柏尾に言う。
「誰が好きでも」
 無言でいる柏尾の肩がふるえた。聞こえないほど小さな声で「消して」と言う。今日は電気をつけたまま眠ってもいいのではないかと思っていたのだけれど、僕はもう一度電気を消した。
 梶尾はもう喋らない。嗚咽どころか、息づかいさえ押し殺されたように聞こえなくなってしまった。
 静かになったとたんに、遠く感じる柏尾の体温。冷めてしまった布団の中で、暗闇に目が慣れないうちに、僕は柏尾の手を探す。僕には想像もつかないほどの「淋しい」を、彼の手はきっと握りしめている。それをあばいて、僕は、どうするつもりなのだろう。
 ふいに、昼間に聞いた鳥の声が頭に蘇った。その声は僕たちを励ましているようでもあったし、蔑んでいるようでもあった。片手で強く耳をふさぐ。
 いい知れない焦燥と、寂寥のようなものに飲み込まれた僕は、せっかく見つけた柏尾の手を握ることもできずに、ゆっくりと瞼を閉じた。そうして静かに眠気を待つ。ふさいだ耳の奥の方、遠くに犬の声がする。



101202



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