くじらの背中



くじらの声の続き





 俺が苦しかったのは、立生が弱音を吐かないからだ。ふらふらで生きているくせに、そんな様子を少しも見せようとしないからだ。幼いころから一緒にいたわけじゃない、それでも一番信用されているのは自分だと思っていた。もちろん俺が一番信用しているのも立生で、俺は立生に何でも話した。
「いつも何書いてんの」
 彼の謎のノートが噂になってから数ヶ月がたつころ、しびれを切らした俺はついに直接問いかけた。穏やかな声で「ひみつ」だと言う立生はいつも隠し事ばかりだ。俺は立生に隠してることなんて一つしかないのに。
 ノートの中身を知りたがっているのは俺だけではなく、それを一番に知るのがもしも俺以外だったらと考えると、どうにも落ち着かない。
「なんで秘密なんだよ」
「おれが死んだら見ていいよ」
 質問には答えず、立生は淡々と言う。彼の腕の中に抱え込まれたノート。薄汚れて古びたノート。座っている立生を俺は見下ろし、俺を見上げる立生は強い目で、視線をそらさないから、いつも俺が先に視線をそらす。
「俺ってそんなに頼りないかなあ」
「どうして?」
 俺の呟きに、立生は心底不思議だというふうに眉をひそめた。
「お前に信用されてないし、全然頼ってこないだろ」
「信じないのは、加治の方だ」
 普段は無表情の多い立生の顔がくもる。たったそれだけのことに、俺は感動している。
「これでも頼ってるんだ。いっぱいいっぱいなんだ」
 穏やかなまま言う立生の声はくじらのようだ。深い海の底から響く。
「どうしたら信じてくれる?思ったこと全部言わなきゃ分からない?言ったらどうなる?おれはどこまで許されてるの?」
 俺を見続ける立生の目に、わずかな困惑の色が浮かぶ。それでもまだ感情を抑え込もうとする立生にじれて、「何でもいいから言えば」と言った。立生はますます眉を下げ、深く息を吸い込んだ。
「淋しいよ」
 そうして、重いものを吐き出すようにポツリと呟く。
「愛されてみたい」
 彼の口から落下した鉛に、体を抑えつけられたように、俺は動くことが出来ない。心臓だけがいつもより早く脈を打っているような気がするが、それは気のせいかもしれない。立生の唇が動く、その口から、言葉がこぼれる。
「明日、泊まってもいいかな」

 その後のことはよく覚えていない。俺は頷いた気がする。ただ、立生の泣きそうに潤んだ双眸だけが強く目に焼き付いて、頭から離れなかった。

 夜、立生は俺の部屋のベッドの上で一緒の布団にくるまっていた。
「おれは母さんが大好きなんだけど、母さんは弟の方が好きだから、というかおれなんかの声は彼女には聞こえてもいなくて、でも弟は母さんを無視するんだよ」
 電気を消し、月明かりさえもカーテンで遮った部屋の中は真っ暗で、となりに立生の体温があることに妙に安心した。布団の中で、立生は饒舌だった。
「愛されてるからって、安心して、関心がないみたいなふりをするんだ。おれだったらそんなことしないのに。愛してるって言われたら、愛してるって返すのに。何をされても許すのに。何にでも従うのに」
 立生の言葉に嘘はない。現に立生の背中には、彼が母親からの愛情として受け止め続けた痣があり、傷があり、治療の跡はひとつもなかった。傷つき変色した立生の背中を、けれどきれいだと俺は思う。それが彼の多大なる愛の証なら。
「…弟、ユキオくんだっけ」
「そう。幸せに生きるって書いて、幸生。おれなんかよりずっと似合った名前をしてるよ。立って生きるだなんて、おれには難しすぎるんだ」
「幸生が嫌いか?」
「おれが嫌いなのは自分だけ」
 どんなに必死で暗闇に目をこらしてみても、いつも通りの淡々とした口調で続ける立生の姿は見えない。こんなに近くで、くっついているのに、彼が今どんな表情でいるのかすら分からない。
「加治、カーテンを開けてもいい?きっと月がきれいだ」
 ふいに立生が起き上がる気配がする。願ってもない申し出だったので考えもせずに頷いた。真っ暗な室内でそれが見えたはずはないが、カーテンはすぐに開けられた。本当だ。月がきれいだ。それを眺める立生の横顔は、もっと。
 月明かりに照らされた彼の、むき出しの背中に今すぐ触れることができたら。母親のものではなく、俺の跡だけを刻みつけることができたら。けれど我慢して拳を握りしめるのは、彼の望みが別にあり、俺にはそれを叶えることができないと知っているから。
「ねえ、おれは何よりも自分が嫌いで、許せない。もしも母さんがおれを消して幸せになるなら、それはおれにとっても幸せなことだ」
「俺は立生が好きだ」
 とっさに言ったことを後悔したが、「知ってる」と立生は言った。まだ薄暗い部屋の中で、たった一つの俺の秘密を彼が笑う。俺は見ていられなくなって、また先に目をそらす。
「おれは、加治に縋って立ってる。生きてることが許せないくらい自分が嫌いで、でもそれと同じくらい強く、本当は生きたいと思ってるから。今のままの自分でいたいと思ってるから。だから揺るがないおまえは、おれの糧なんだ」
 立生の声が滲んだ気がして、つられるように鼻の奥がつんとした。今すぐ立生の顔が見たい。どんな表情をしているのか。涙をこぼして泣いているのか、それとも普段通りの無表情で、渺々としているのか。
「加治が、おれがいなくなることを許さないでいてくれるから、おれはまだのうのうと生きてる」
 何か答えなければと思うのに、思うように声が出ない。何を言えば全てがうまく伝わるのかも分からない。ただただ俺は目の前の、綿菓子みたいにもろい男が、精一杯縋りついてくるのがたまらなくよくて、愛おしくて、顔を上げる。もう一度見た立生は、まだ月に見とれていた。



101024



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