神の怒り



 もしも神さまがいるのなら非常に面倒くさがりな性格をしていて、おれの声が聞こえていないのだとしたら、それはきっと耳をふさいでいるからなのだろう。だからおれはいつまでも救われない。
 せまい学校の中で、聞きたもくない言葉に聞き慣れてしまった。だからと言って、おれの鎧は無敵にはならず、痛みは蓄積されていく。最近はなんだか投げやりになって、うるさいな、もうすぐ死ぬからほっといてくれ、なんて思うようになった。
 音楽を聴いて泣いたりするのも、多分そのせい。感傷的になってんだ。ばからしい。

 屋上に続く扉には鍵がかかっているけどそれでよかった。その扉には誰も近付かないから、休み時間をひとりで過ごせる。
「ねえ」
 だから、こんな風に人がくるのは例外だった。戸惑いながら視線を向けると、見覚えのある顔がおれを見下ろしていた。クラスメイトの草間だった。
「ここ、涼しいね。いつもくるの?音楽が好きなの?何聴いてるの?僕は今ね、学校中の窓の数を調べてるんだ。自由研究に使おうと思うんだけど、ここにはないみたいだね」
 質問の連続におれが答える間もなく、草間は勝手にペラペラと喋る。教室での草間はもっと落ち着いたイメージで、こんなに話しているのは見たことがなかった。
 おれは座ったまま、呆然と草間を見上げる。ふいに草間がしゃがみ込み、無言でこちらに手を伸ばした。顔に近づいた手に、おれはびくりとして目をつむる。草間の手は、おれの右耳からイヤホンを奪って戻っていった。
「三浦くんは神さまを探してるの?」
 目を開ける。さっきまでおれの右耳にあったイヤホンが、草間の耳に当てられている。
「僕、神さま知ってるよ」
 おれは苦笑いをして、ばからしい、と眉を下げた。おれにかまうなよと怒った。それでも真っ直ぐにおれを見ていてる草間の耳からイヤホンを取り返しながら、一体なんなんだよ、と半泣きになった。草間だけがずっと真顔だった。

 草間に手を引かれるままに、おれは学校を出た。草間の歩みはカタツムリのようにノロくて、いらいらした。
「どこに行くんだよ」
「神さまのとこ」
「ばかじゃねえの」
 それっきり草間は喋らなくなった。おれは草間の少し後ろを歩きながら、他にすることもなく目の前の頭を眺める。ふわふわと揺れる、光に透けて茶色い髪の毛。草間は全体的に色素が薄く、その分印象も儚い。クラスメイトとしての彼の大人しいイメージは、そのせいだったのかもしれない。
 白くて細い首筋は、女のようにも見えた。思いつくとなんだか急に照れくさくなって、つながれたままの手を振りほどこうとしたが、それに気付いた草間はさらに強い力で握りしめてきた。
「痛えよ」
 草間はやはり喋らず、振り向きもしない。仕方なく、おれは草間に歩幅を合わせて、大人しくついて行く。

 十分ほどかけてたどり着いたのは、小さなペットショップだった。草間は店内を知り尽くしたように歩いていき、ひとつの水槽の前で足を止めた。
 水槽の中では真っ白な魚が、ゆらゆらと漂うように泳いでいる。目だけが赤い、こういうのを何て言うんだっけ。
「アルビノ」
 ああ、それだ。おれの疑問に答えるように呟いた草間を振り向く。草間は水槽だけを食い入るように見ていた。
「アルビノダイヤモンドオスフロネームスグラミー。僕が小学生の時に売れちゃって、それ以来いなかったんだけど、最近また入荷されたみたいで」
「アルビノ…お、おふすろ?」
「オスフロだってば。みんな間違えるんだね」
 みんなって誰だろうか。草間は前にもこんな風に誰かの手を引いて、ここへ連れてきて、その時もこんなに真っ直ぐな目で、白い魚を見つめたのだろうか。水槽に反射した光が草間の横顔に当たって、きらきらする。こんなに見てたらばれるかも、水槽を見てよって怒られそう、なのにおれは、草間の横顔から目が離せない。
「…きれい」
 思わず呟いてからハッとしたが、草間は魚のことだと勘違いしてくれたらしく「ね、神さまみたいだろ」と嬉しげに笑った。心臓が締め付けられる思いだ。なぜ?

 もしも神さまがいるのならこの魚のような形をしていて、おれの声が聞こえていないのだとしたら、それはきっと水の中にいるからなのだろう。ゆらゆらと泳いで進む、真っ白な体、小さな赤い目。いつかおれの声が届いたらその時は、この目が妖しい光を放ち、おれを救い出してくれるんだ。

「ログジエルだよね、聴いてたの」
 帰り道、草間が言った。いつの間にか水槽から離れて、おれの方に向けられていた草間の視線に気付いた瞬間、一気に動揺が広がる。応えないおれを見つめる草間の顔は、異国の女神さまのようで、昔飼っていた犬のようで、よく見るクラスメイトのようだった。
「“神の怒り”だよね」
 そうだ。当たっている。草間の言うことは全て。
 おれがいつも聴いていたのはログジエルだし、それは日本語だと神の怒りで、おれは神さまを探していた。屋上の手前にはいつもいて、そこはとても涼しくて、音楽が好きだった。救われたかった。
「草間は、天使なの?」
 真面目な顔で問いかけたおれに、草間はしばらくぽかんとした後、ふいに吹き出した。真剣な問いに対する草間の爆笑も、教室では絶対に見れない顔だと思うと、怒りすらわかなかった。
「三浦くんが一番分かってるんじゃない?僕はただの地味なクラスメイトだよ。僕の名前覚えてるのなんて、きっと三浦くんぐらいだよ」
「だから声かけたのか?」
「ちょっと違うかな。声をかけたのは、ログジエルを聴いてたから」
 でも、草間がおれからイヤホンを奪ったのは、話しかけてきた後だ。怪訝な顔つきになったおれを見て、草間はくすくすと笑った。よく笑うやつだ。教室ですましているときより、ずっといい。
「僕、耳がいいんだ」
 困り顔のおれを見つめる草間の顔は、異国の女神さまのようで、昔飼っていた犬のようで、よく見るクラスメイトのようで、音楽も聴いていないのにおれは、泣きそうになってしまう。



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