尾びれ



喉が渇いたと言って外に出たので、ジュースでも買いに行ったのかと思ったら、同居人の谷津田はそのまま帰ってこなかった。
そうして一ヶ月後、何事もなかったかのように、見たこともない金魚と一緒に帰ってきた。金魚の入ったビニール袋を無言で俺に渡すとまっすぐ風呂場に向かい、そのまま二時間ほどこもった。ぼうぼうに伸びたヒゲを剃って、風呂から上がった谷津田が「なんか容れ物ある?」と言うまで、俺は金魚を抱えたままテレビを見ていた。
「なにこれ」
「ん?金魚」
分かりきった質問をした俺に、谷津田は分かりきった答えを返した。
「かわいいだろ。食器つかっていい?」
「食器で飼う気かよ」
「ちゃんと自分のぶんでやるよ」
「あたりまえだろ」
いくら洗っても、一度金魚の入った食器で飲食するのはごめんだ。こいつなら平気でやりそうだけど、俺はそこまでおおらかじゃない。
「谷津田、生き物好きだったっけ?」
「さあ」
流しの下をごそごそあさって、谷津田はよさそうな食器を吟味している。
「容れ物は、小さいのでも大丈夫らしいんだよな。こまめに水変えしてたら」
きいてもいないのに、谷津田はぎりぎり聞こえるくらいの声で、ぶつぶつ呟き始める。俺はこっそりテレビの音量を下げた。
「体の二倍くらいの深さがあったら、何ででも飼えるって」
「へえ、コップでも?」
「うん」
コップを抱えて俺のとなりに座った谷津田は、嬉しそうに笑った。谷津田がこんな風に笑うのは珍しいことで、俺は手の中の金魚に嫉妬する。ばからしいけど。
「金魚って命短くない?」
「それは飼い方が悪いんだ」
「谷津田は上手いのかよ」
「絶対に死なせない。というか、お前よく生きてたな」
ふいに谷津田が振り向いてこちらを見た。一ヶ月間も音信不通で放置しておいて、やっと言った言葉がそれか。
「平気だよ。普段も家事とかほとんど俺がしてるじゃん」
拗ねているのがばれないように、立ち上がりながら谷津田に金魚を手渡す。
「俺がまだ高校生だから、世話してくれる人がいた方がいいだろうって言って預けられたのに。俺の方が谷津田の世話してるよね」
そうだなと爆笑する谷津田を見ないように背を向けて、さっき行ったばかりのトイレに入ったけれど、とくに出るものはなかった。

俺には両親がいない。父は生まれたときからおらず、母は俺の高校入学と同時に他界した。だから今は、谷津田と同居なんかをしている。会ったこともない父の弟だという谷津田は、おれたちは爪の形が似ているなとよく言う。他にも谷津田は、ことあるごとに二人の共通点を探そうとするが、俺にはひとつも分からない。
俺と谷津田は全然違う。だから、好きなのかもしれない。
「なあ、名前どうすんの」
「名前?」
「金魚の」
「ああ。考えてなかった」
「考えろよ。腹に腹巻きみたいな模様があるから、ハラマキとかは?」
「なんか安易だな。天頂花房っていう種類らしいから、ハナフサとかでいいんじゃないか」
「それこそ安易だろ」
「いいよ、おれはハナフサって呼ぶ」
「じゃあ、俺はハラマキって呼ぶ」
金魚も迷惑な話だ。ふたつの名前で呼ばれるなんて。コップに移された金魚を、俺はじっと眺める。平べったい体。広がった尾びれ。底の方でじっとして、上向きに飛び出した両目で、天井ばっかりを見てる。
「テンチョウハナフサなんて初めて聞いた」
「珍しいらしいぞ」
「ふうん。目ばっかり気になるけど、よく見たらきれいな尾びれだな」
「な。うわさ話の尾びれも、こういうきれいなのならいいのにな」
「なんだそれ」
唐突にくさいことを言う谷津田を鼻で笑う。笑いたい、だけど笑いきれないから俺は、金魚ばかりをいつまでも見る。
俺が呼び捨てにするのを、谷津田は怒らない。年上だが敬語も使わない。言葉づかいなんて他の人に接するより、むしろ乱暴になるくらいだ。けれどそれは谷津田が嫌いだからとかそんな理由ではなくて、多分単純に、俺が谷津田の存在を家族のようなものとして受け入れてるってことなんだろう。それが分かってるから、谷津田もいやな顔をしない。
『うわさ話なんてのはさ…』
いつか谷津田が言った言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。その時、俺は谷津田の目の前で、小さな子どもみたいに号泣していた。
俺は感動している。何でもない谷津田の言葉に、いつも。それを悟られるのは癪だ。
「死んだ魚って怖いよな。俺やだよ、死体埋めるの」
「だから死なせないって。ハナフサもお前も、ちゃんと育てるよ」
一ヶ月間も姿を消していた男が、何を言ってるんだか。そういう意味を込めて苦笑いをした。
「ちゃんとの意味、分かってる?」



谷津田は嘘をつかなかった。あれから谷津田が連絡もなしに家をあけることは一度もなく、俺は無事に高校を卒業した。金魚には相変わらずふたつの名前があり、それでも健康そのものだった。大学からの一人暮らしのお祝いに、金魚をやると谷津田は言った。俺は困惑したが、なぜか素直に受け取ってしまった。確かに谷津田は金魚を死なせなかったが、このまま育てるとすれば、いつか死なせてしまうのは俺だ。
「お前、あっちに行ったらさ、電話とか掛けてくんなよ。メールも手紙も出すなよ」
「なんで」
「遠いから」
「距離は関係ないだろ。料金は変わんないよ」
「ばか、会いたくなるだろ。でも、会えないだろ」
「なんだそれ」
俺は笑い飛ばしたが、谷津田は思い詰めたみたいにため息をついた。
「娘が嫁に行くときってこんな気持ちなのかな」
「知らねえよ」
「とにかく、お前がおれに連絡していいのは、ここに帰ってきたときだけだから」
「わがままだな」
俺だって淋しいのに。声だけでも聞きたいときだってあるのに。まあ、別にいいけど。谷津田が育ててた金魚、いるし。
「お前、おれのことパパって呼べば」
「呼ばねえよ」
数ヶ月後、三年間を共に過ごした谷津田の家から遠くはなれたところで、俺は大学生になる。同じころ、金魚の名前がひとつになったが、谷津田はまだそのことを知らない。



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