電灯



 香仔の部屋の電灯は、すぐには点かない。何度か点滅したあとに、やっと室内を照らす。それもごくわずかな光で。そういうところが、香仔はとても気に入っている。
「暑くないの。扇風機もつけないで」
 ふいに扉が開いて、弟の小香が顔を出した。ベッドに寝そべっていた香仔は、確認もなしに入ってきた小香を睨んだが、その手に冷たい飲み物があるのを見てやめた。
「どっちがいい」
「どっちが何?」
「両方カルピス」
「じゃあ左」
 起き上がり、並んでベッドに腰掛ける。小香は右手に持っていたコップを香仔に渡して、香仔はなにも言わずに、その中身を一気に飲み干した。
「香仔、海に行かない?」
 その様子をずっと見ていた小香が、笑顔で香仔に問いかける。「行かない」と香仔は無感動に答えた。からになったコップを差し出すと、小香は当たり前のようにそれを受け取る。
「外すごいよ、空が真っ青で」
「ふうん」
「ただ青いのじゃないよ。肺まで青くなりそうなくらいなんだよ」
「肺が青くなるのはいやだ」
「じゃあ、あんまり息をしなけりゃいい。ね、行こうよ」
 小香は嬉々として誘い続けるが、香仔はいまいち気が進まない。外に出ること自体そんなに好きではないのに、海というのは少し遠出すぎる。それもこの暑い日に、電車に揺られるのはごめんだ。
 それに香仔にはもうひとつ、気に入らないことがあった。
「小香、髪の毛染めた?」
 すぐ隣の小香の髪の毛に触れると、小香は「ああ…」と歯切れの悪い返事をした。ごまかすように首筋を触る小香を見て、香仔はいじわるに笑う。
「似合ってるね」
 遠慮なく触れてくる香仔の手を軽く払って、小香は口をとがらせた。
「やめてよ、後悔してるんだ。分かってるくせに」
 香仔は払われた手を引っ込めながら、早く弟の髪が伸びればいいと思う。今の色も変ではないが、やはり彼に一番似合うのは黒だ。
「ああ、早く髪が伸びないかな」
 ため息をつくように呟いた小香に、香仔は思わず笑みをこぼした。
「伸びたらわたしが切ってあげる。そしたら、海に行こう」
「なにそれ。いつになるんだよ」
 それからしばらく、他愛もない話をいくつもした。そのうち陽が落ちると、「暗いね」と言って立ち上がった小香が、電灯のスイッチを入れた。香仔の部屋の電灯は、何度かぱちぱちと点滅して、それから室内を照らした。香仔は幸せな気持ちでそれを見ていた。



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