手を探す



 大きなミミズが木の枝みたいに、地面に寝そべっている。僕が慌ててよけたそれを、先輩はあっさりと踏みつけた。
「野田先輩、ミミズ踏みましたよ」
「えっ、いつ」
「今」
「うわ。悪いことしたなあ」
 気持ち悪い、より先に眉を下げた先輩は振り向いてミミズに謝る。歩き始めてからも何度も立ち止って頭を下げたりなんかして、ミミズの神さまに祈りを捧げる始末だ。はっきり言って彼は変人だ。こんな人が早々に結婚していて、子どもまでいるというのだから世の中は不思議だ。同僚の女の子たちが語る先輩の魅力は、僕にはよく分からない。
 そんな先輩と、二人で簡単なプレゼンテーションをすることになってしまった。日数も少ないため、僕の家で作業をすることになったので、駅を降りて並んで歩いたりなんかしている。
「きれいだなあ、すごいなあ」
 初めて訪れた僕の家で、先輩はずっとにこにこしていた。これから徹夜で準備をするというのに、いつもののんきを崩さない彼のマイペースさには、困惑すら覚える。
 簡単に夕食をとって、僕たちはさっそく作業に取りかかった。あらかじめ「徹夜は苦手」と宣言したとおり、先輩は数時間もたつとうとうとし始めた。
「いつも何時ごろ寝るんですか」
 資料の整理をしながら、先輩が寝てしまわないように話しかける。
「十一時くらいかなあ」
「早いですね」
「うん。こんなに起きてるのは久しぶりで、なんだか懐かしい」
「懐かしい?」
「大学生のころを思い出す」
 へらへらとした笑みを浮かべる先輩の手は、もう動いていない。頭だってそんなに働いていないだろう。僕はため息をのみ込んだ。
「少し眠りますか。十五分したら起こしますよ」
「うーん、ごめんね」
 その言葉を待っていたように嬉しそうに笑い、のろのろとした動作で僕のそばへ寄ってくる。作業を続けていると、すぐ近くで鞄を枕にして横たわった。
「布団しきましょうか」
「いい。このままが」
 落ち着く、と先輩は言って、寝床を整える猫のようにもぞもぞと身じろぐ。体を丸めた彼の姿は、本当に何かの動物みたいだった。
「成功するといいね」
 ふいに話しかけられて振り向いたけれど、先輩の目は閉じていて、視線が絡むことはない。
「なにがですか」
「…プレゼン」
「ああ」
 そうですね、と続けようかと思ったけれど、寝息をたて始めた先輩を見たら何だかばからしくなったので、そのまま作業に戻った。
 明かりのついた室内に、僕が作業をする音と、時計の音だけが響く。先輩の寝息や声は、ほとんど聞こえない。かわりに時おり冷蔵庫がうなる。
 先輩が同じ空間にいることを忘れそうになっていたとき、ふいにカサリと音がして、見ると丸まっていた先輩の手がこちらに伸ばされていた。何かを探すように、先輩の手はひくひくと動く。青白くて、細くて、頼りない手だ。ひとりでは生きていけないのではないかと思わされるような手。淋しいのかと、近くにあったハンカチを適当に触れさせてやると、先輩はそれを強く握りしめ、室内はまた無音になった。

 ぴったり十五分後、声をかけると先輩はすんなりと起きた。
「ありがとう、すっきりした」
「いえ」
「片岡くんも仮眠とる?」
「僕はいいです」
 すごいねえ、なんて言いながら先輩は、はじめて自分の手の中のものに気付く。
「あれ、なにこれ」
「ハンカチです」
「それは分かるよ」
 少し笑って先輩は作業を再開した。その動きは数段早くなっていて、眠らせてよかったなと思う。
「先輩、何か夢を見てました?」
 気になったことを問えば、先輩は首をかしげた。そんな子どもっぽい仕草も彼には合っていて、あまり違和感を感じない。俺より年上のはずなのに、なぜか時々、すごく小さな子どもに見える。そのくせ仕事をするときなんかは、すごく大人に見えたりもする。やっぱり先輩は先輩だ。
「手を探してた気がする」
「手?」
 先輩は作業を続けたまま、多分ね、とほほ笑む。
「見つかりましたか」
 先輩の首はゆっくりと横に振られた。めずらしく悲しそうな顔をするもんだから、僕は目が離せなくなった。いつまでも見ていたいような気がするし、今すぐに目をそむけて、届かないところまで逃げ出したい気もする。
「夢だけじゃなくて、多分ずっと探してる。若いときは握ってた。離さなきゃよかった。いつも、ちょっとだけ思う」
 僕は黙ったまま、しばらくしてからやっと顔の向きを変え、作業を再開した。耳だけを傾ける。彼の横顔は、なんとなくそうしてほしそうに見えた。
「たまに後悔する。すごく幸せなはずなのに」
 先輩をここまで魅了し、捕らえて離さないものは、一体何なのだろう。僕には得体の知れない彼を、夢中にさせる何かが何者であろうと、やっぱり僕にはいつまでも理解できないのだろうか。そう思うと、少しだけ淋しい。

 朝食は先輩が作った。大学時代に一人暮らしをしていただけあって、食事を扱う手つきは慣れていた。それから、昨日の晩も思ったけれど、先輩は食器を洗うのがやたらとうまい。まるで音がしないのだ。だから僕は、先輩が食器を洗い終えたのに気付かない。後ろから声をかけられて初めてびくりとする。
「煙草吸うんだね」
「すみません。人前ではあまり吸わないんですが」
 いると思わなかったから、なんとなく火をつけていた。消そうとしたら手を掴んで止められた。
「続けて」
「先輩は吸わないでしょう」
「そのにおい好きなんだよ」
「知ってるんですか」
「うん。片岡くんって、なんか安心すると思ってたんだ。それだったんだな」
「そうですか」
「懐かしいなあ。会いたいなあ」
「誰にですか?」
「おれのね、癒しの天使」
 そう言って口角を上げた先輩は自分こそ天使のような顔をしていた。僕の吐き出した伏流煙を、酩酊した表情で吸い込む。今どきゴールデンバットを吸う天使のような女性などいるのだろうか。先輩が僕によく懐いたのは、初めからこれが原因だったのだろうか。やっぱり僕には、先輩がよく分からない。

 昼食を一緒に食べようと言われた。なんと言って断ろうかとずっと考えていたのに、昼になると結局は並んで座っていた。いい年をした大人のくせに、どこか放っておけない先輩の雰囲気のせいだ。
「いただきます」
 店員さんに温めてもらったコンビニ弁当を広げる僕のとなりで、先輩は愛妻弁当に醤油をかけている。



1100911



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