幸福のしるし



 ヨノの左耳はこわい。どうして顔にくっついているのか不思議なくらいに穴だらけだからだ。けれどそれは幸福のしるしなのだと、ヨノは言う。嬉しいことがあるたびに、彼の左耳の穴は増えるのだそうだ。ばかじゃないか、と俺は思う。
「臣くん、おれの金魚が消えた」
「は?」
「おれの日課は毎朝、キラキラのビー玉と水のたっぷり入った水槽の金魚に餌をやって、それを見ながら、臣くんに電話をすることだったんだけど」
 たしかにヨノは毎朝電話をしてくる。出会った日から一日も欠かしたことはない。けれどそれが金魚を眺めながらだったということは、どうでもいい初耳だった。
「でも今日、突然いなくなった。金魚だけが。不思議だ」
 ヨノはまじめな顔をして、ベッドに寝ころんだままのおれを見た。ヨノがしゃがんで、ベッドのふちに手をつくと、スプリングがゆるりと沈む。
「これは不幸だから、右耳に穴を開けなくちゃいけない」
 覗きこんでくるヨノを、おれは視線だけで見上げた。視線がからんでも、ヨノは無表情で続けた。
「でももしも今日中に金魚が見つかったら、それは幸福だから、左耳に穴を開けなくちゃいけない」
 そう言うヨノの乾燥した唇を眺めながら、それなら金魚が見つからなければいいと思う。これ以上穴が増えたら、どうなってしまうのだ、ヨノの左耳は。
「おまえの左耳、よく生きてんな」
 俺の言葉にうっすらと笑みを浮かべたヨノは、黙ったまま遠くを見ていた。

 夜中、ヨノから電話があった。金魚が見当たらないんだ、とヨノは言った。朝以外に、ヨノから電話がきたのは初めてだった。
「どうしよう。金魚が見つからないまま今日が終わったら、おれは不幸だ」
 受話器の向こうで、ヨノは嘆いていた。俺はヨノの左耳のためにも、こうなることを望んでいたはずなのに、顔の見えない状態でいざ泣きつかれてしまうと、どうにも気持ちが揺らぐ。うって変わって、ヨノ本人はのんきな声を出した。
「この不幸を吹き飛ばすくらいの幸福が起こらないかなあ」
「たとえば?」
「人間のせいで絶滅した動物が蘇るとか」
「無理だろ」
「地球温暖化が止まるとか」
「無理、無理」
「今すぐ臣くんがおれに会いにくるとか」
「一番ねえよ」
 思わず吹き出した。俺が何年、ベッドの上に横たわり続けてると思ってんだ。笑った直後、怒りのような感情が込み上げて、電話を切りたくなった。そんな俺の気持ちの変化に、ヨノは微塵も気付かない。
「ねえ、今、会いたいって思ってる?」
「別に」
「じゃあ思って」
「はあ?」
「思った?」
「はいはい」
「よかった。じゃあ今日も、幸福だ」
 瞬間、受話器越しに、ヨノの左耳を貫通する機械音が、おれの右耳に響いた。時計は二十三時五十八分を差していた。

 ヨノの左耳はこわい。けれどそれは幸福のしるしなのだと、ヨノは言う。俺と出会ってから、ヨノの右耳の穴はひとつも増えない。ばかじゃないかと、俺はベッドの上で思う。目をつむる。俺を見つめるヨノの目が、まぶたの裏に焼き付いていた。



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