魚、吠える(下)



 携帯のアラームに目が覚めた。ロジがいたはずの場所はすでに冷たい。リビングのテーブルの上にはコーヒーがひとつと、飲み終わったマグカップが、洗われないまま流しにあった。
 朝食を済まし、食器を洗い、着替えをして、アトリエの扉に両手をふれる。
「ロジ」
 返事はない。いつものことだ。わたしはゆっくりと目を閉じる。
「ロジ、いってきます」
 扉の向こうで息づく彼の気配だけが、やわらかい波のように、わたしの心を揺さぶる。たったそれだけで、今日もがんばりたくなる、わたしはどうかしている。

 学校でいちばん好きなのは下校の時間だ。
 学校はつまらない。授業や友達が嫌だとかじゃなくて、きっと単純に、そこにロジがいないからだ。だからわたしは、学校が終わるとほっとする。そうしてロジのいるマンションへ戻る、帰り道の時間がいちばん好きなのだ。
「あ、お魚さん」
 小さな子どもの声がして、続けて母親らしき女性が「本当だ、お魚さんだね」と言った。わたしは声のする方を見たけれど、近くには海も川もなく、水槽もなく、親子はすでに別の話を始めていた。いったいどこに魚が、とぼんやり親子を眺めていると、しばらくして空を仰いだ子どもが、もう一度「あ」と叫んだ。
「お魚さん、いなくなっちゃった」
「ああ、本当だ」
「泳いで逃げちゃった…」
 親子につられて空を仰ぐと、高い空には無数の雲がちらばっていた。なるほど、魚の形の雲を見たのか、と納得して、ふと昨夜のロジの言葉を思い出す。自由はどこを泳いでいるのか。
 空かもしれない。
 見えていても手は届かず、捕まえられず、ときどき気まぐれみたいに姿を見せる、自由は空を泳いでいる。
 思いつくと嬉しくなって、わたしは少し足を速めた。けれど帰り着いたマンションで、ロジはインターフォンに応えなかった。こんなことは初めてだった。
 鍵が開いている。もしかして朝のままなんだろうか。勝手に上がり込むが、電気は付いていない。
 全ての部屋を探したあと、そうっとのぞき込んだアトリエの床で、仰向けになったロジを見たとき、死んでいるのかと思った。悲鳴をのみ込んで呼吸を確認する。ロジは生きていた。
「ロジ、どうしたの」
「沢子」
「具合悪いの?」
「ううん」
 ロジの声に安堵した。ロジは目を閉じたまま、口だけを動かしている。ふいにロジの手が伸びて、わたしの肩に拳がこつんと当たった。
「これ」
 ロジの絵の具まみれの手が開かれると、中には指輪が握られていた。指輪といっても、いい歳をした大人が告白に使うようなしゃれた指輪ではない。小さい頃大切にしていた、おもちゃの宝石がきらきらと煌めくような、小さな指輪だ。
「大事な指輪なんだ」
「うん」
「すごく大事なんだ。命より大事」
「うん」
「これがなくなったら死んじゃう」
「うん」
「沢子にあげる」
 ロジはわたしの手に、その指輪を握らせた。つむったままのロジの目から、涙がひとつぶこぼれ落ちた。
 そこでやっと、わたしは久しぶりに足を踏み入れたアトリエを見渡し、あ然とした。かつて空のような水色だったキャンパスは、空虚な群青で上書きされ、たくさんの色が混ざり、濁って、ぐらぐらしていた。
 群青の真ん中で、わたしは途方に暮れる。ここは水中だ。深海だ。光の届かないところだ。
 なんてところだ。ロジの中身は、こんなに暗い場所にいたのか。
「ロジ」
 何も考えずに、ロジの名前を呼んだ。ロジは動かなかった。
 黒に近い青の海。これはロジの悲鳴だ。いつも静かに笑っていた、ロジの悲鳴がここに満ちている。彼からあふれた数え切れないほどの感情は、色になって、深海になって、吠える。
 ロジは深海魚にでもなるつもりなのだろうか。
「痛みなんてなければいいのに」
 彼の口が小さく動く。もう涙は止まっているが、目を開こうとはしない。
「そしたら、幸せになれる」
「痛みがなくなったら、幸せもなくなっちゃうよ」
「そうかな」
「痛みはなくならないし、楽しいことも、嬉しいことも、なくらならないよ。誰のも」
 わたしは強い口調で言った。ロジは納得したみたいに頷いたけれど、これはわたしの、ただの願望だったかもしれない。「いらない」は淋しい。
 わたしの悲鳴は、窓ぎわに置かれた本の中にたまっているのだろうか。誰に聞こえるんだろうか。
「目あけて。ロジの目見たい」
「沢子が電気つけたから、眩しいんだよ」
 ロジはそう言って、笑いながら目を開けた。すぐさまばっちりと目が合って、ロジははにかむように、一瞬だけ唇を噛んだ。
「のど乾いちゃった」
「水飲む?」
「コーヒーがいいな」
 じゃあよろしく、と笑えば、もちろんとロジはほほ笑み返す。水たまりの瞳が揺れて、きらきら光る。キッチンに立った彼の背中を、テーブルに両肘をついて見つめた。
 てのひらの中のきらきらを、わたしはぎゅっと握りしめる。



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