魚、吠える(上)



 憧れているものがある。
 とてもきらきらしたもので、わたしには手が届かない。それでもわたしは、それが欲しい。とても欲しい。
「夢見が悪い。ロジのせいだ」
 慣れた手つきでコーヒーをいれる背中に向けて言ったけど、彼は「ええ」と困ったように笑うだけだった。
「おまたせ」
 二人分のコーヒーをテーブルに置いて、ロジはわたしの正面に座った。わたしは両肘をついて、コーヒーの中に砂糖を溶かすロジを見ていた。半分ほど飲み終えたロジが顔を上げて、やっと目が合う。
「沢子、冷めちゃうよ」
「いい。冷めたのが好き」
「そうだっけ」
 ロジはコーヒーをすする。
 わたしには、ロジのマグカップの中身は見えても、ロジの中身は見えない。空っぽなわけじゃないのに、ぎゅうぎゅうに凝縮されたロジの中身は、誰にも見えない底の方で、小さく小さく存在している。ロジは感情の露出をいやがる。
「ねえ、ロジのこと好きな人が、この世に何人くらいいると思う?」
「わかんないけど、三人はいるかな」
「誰?」
「お父さんと、お母さんと、あらたま」
「あらたま?」
「飼ってた犬」
「犬は人って数えないよ、ロジ」
 ロジは「そうだね」とほほ笑んで、最後の一口を嚥下した。わたしは彼の言う「そうだね」がとても好きだ。だけど、心がないみたいに、ぼんやりとした彼は嫌いだ。

 コーヒーを飲み終えたロジがアトリエにこもってしまったので、わたしはお気に入りの窓ぎわで本を読むことにした。わたしの家は同じマンションの隣だ。母と二人暮らしだが、仕事の忙しい母はめったに家にいない。
 わたしがロジの話をすると、母は眉をしかめる。彼が売れない芸術家で、若くもないのに、いつまでも夢ばかり見ているからだと、母は言う。ロジは夢なんて見ていないと、わたしは思う。
 ロジは帰った方がいいと言ったけど、わたしはひとりで、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。扉の向こうにいる、売れない芸術家の気配に耳を傾ける。

 ロジのアトリエには、一度だけ入ったことがある。床一面にビニールシートをしいて、無理矢理アトリエにされた小さな畳の部屋は、真っ青なキャンバスであふれていた。澄んだ水色ばかりに囲まれて、真ん中に立つと、まるで空を泳ぐ魚になったような気分だった。
 その頃のロジは、今よりあまり笑わなかった。だけど、今よりずっと元気な目をしていた。
「沢子、今夜の予定は?」
 ロジがアトリエから出てきたのは、時計の針が十二時を回ってからだった。そうして窓ぎわに座っているわたしを見ると、ロジはあきらめたみたいに笑う。絵の具でどろどろになった手を、絵の具でどろどろになったエプロンで拭いながら、いつも同じ質問をするので、わたしはロジのいない間、ずっと考えていた今夜の予定を発表する。
「ロジが食べたいって言ってた白身魚の煮物を食べて、映画みて、コーヒー飲んで、寝る」
「いいね」
 ロジはふんやりと笑う。

「今日って何曜日?」
 白身魚を頬張りながら、ロジが訪ねた。
「日曜日だよ」
「じゃあ、沢子は明日学校か。ダメだな、外に出ないと。日付も曜日も、分からなくなっちゃう」
 ロジはぽりぽりと頭をかいた。伸びた黒髪が、さらりと揺れる。その奥で、真っ黒な瞳はゆらりゆらりと揺れている。ロジの瞳は、水たまりに似ている。
「ちょっとは外に出なきゃな」
「いいんじゃない、別に」
「沢子に頼りすぎてる」
「お風呂入る?」
 おはしでご飯をつつきながら、わざとらしく話題をそらすと、ロジの思考はあっけなくつられてきた。
「そうだなあ、沢子は?」
「もう入った。ロジ、入るよね」
「うん。ぬるいのがいいな」
「もう冷めてるよ」
 多分、水みたいになってるよ。

「自由って、どんなところを泳いでるものなのかな」
 お風呂から上がったロジが唐突に言うので、わたしは首をかしげた。
「なにそれ」
「おれはさあ、水中に顔を沈めて、ぶくぶくってするときの音が好きなんだけど」
「うん」
「久しぶりに、お風呂でやってみたら、なんか、思ったんだよ」
「意味わかんないよ」
 ロジは単純だから、わたしが突き放すと、すねたみたいに唇を噛む。
「でも、もしも泳いでるとしたら、透き通った川とかじゃないの」
 ロジは単純だから、わたしがにっこり笑うと、泣きそうな顔で口角を上げる。
「さすが沢子」
「まあね」
「今何時?」
「三時」
「映画は明日にしようか」
 絵の具の取れきっていない手でぼさぼさの頭をかいて、やわらかく笑う、おしゃれとはほど遠いところにいるようなロジが、わたしは好きだ。

 ベッドの中でまどろみながら、耳をそばだてる。ロジの呼吸がだんだん穏やかになって、眠りそうになったころ、わたしは彼に声をかける。
「起きてる?」
「うん」
 眠そうに答えるロジに、わたしは問う。
「あらたまは、ロジに懐いてた?」
「うん。かわいかったよ、しっぽ振って」
「ロジ、あらたまのこと撫でた?」
「うん」
「すきって言った?」
「うん」
「いっぱい一緒にいた?」
「うん」
「いいな。あらたまになりたい」
 ぼんやりとした声で「そうだね」と呟く、ロジの呼吸は穏やか。



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