くじらの声



 西高くんは、とてもやさしい顔をした男の子だった。口数が少なく、あまり笑わない彼を、みんななんとなく遠巻きに見守っていた。

 休み時間になるといつも、西高くんは机の中から一冊のノートを取り出す。そして鉛筆を握り、熱心に何かを書きはじめる。手を止めて必死に考えて、書いて、消して、また書いて、また消す。ときどき授業中にも彼がそうしていることは、きっとうしろの席であるわたしだけが知っている。

 夏のプールの授業があった日から、西高くんの背中には髑髏の刺青があるって、男子の間で噂になって、すぐに女子にも広まった。彼は背は高いがひょろひょろで、なんだか頼りない印象だから、意外だったんだと思う。わたしも驚いた。
 授業中、彼のまっすぐな背中を見ながら、制服の下で笑う髑髏を想像してみたりしたけど、よく分からなかった。

 金木犀のにおいに秋を知る。西高くんの不思議な習慣は、まだ続いていた。ノートの内容は事細かなメモだとか、呪文を書いているんだとか、不確かな憶測が飛び交う。違うクラスから見にくる人までいるけど、ノートの中身を見た人はまだいない。
 西高くんのノートのひみつは、歌をつくっているんじゃないかと、わたしは思う。
 みんなはノートばかりに気を取られているけれど、西高くんの声はとてもいい。まるで雄のくじらが、深海で鳴いているみたいな声だ。彼が歌えば、きっとすごく素敵だ。
 一度気になり始めたら、止まらなくなってしまった。あのノートの中身が見たい。ものすごく見たい。
 けれど西高くんはノートを手放さない。帰るときは持って帰るし、トイレのときでも抱えていってしまう。みんなの心のモヤモヤは、深まる一方だ。

 ところがある日の放課後、人に呼ばれた西高くんは、ノートを机に入れたまま、慌てて荷物をまとめて帰ってしまった。これはものすごいチャンスだ。ドキドキしながら、教室が空になるのを待つ。
 ついに誰もいなくなり、あたりを見回し、わたしは西高くんの机の中を見た。やっぱりノートがそこにある。わたしはゆっくりと手を伸ばし、少し重く感じるノートを、そっと手に取る。古ぼけた表紙。
「おい」
 ふいに声をかけられ、わたしは飛び上がって、手からこぼれたノートが派手な音を立てて床に落ちた。
「勝手に見んなよ」
 振り向くと、体格のいい男子が立っている。放課後に西高くんを呼びにきた、確か隣のクラスの加治くんだ。一年生で生徒会に入ったって少し有名になったから、覚えている。
「びっくりした。西高くんかと思った」
「立生じゃなかったらいいのかよ」
 加治くんは当たり前みたいに、西高くんを名前で呼んだ。早足に歩いてきて、わたしが拾い上げたノートを引ったくるように奪う。さすがにムッとして、わたしはずいぶん高い位置にある加治くんの目を睨んだ。
「加治くんは気にならないの」
「俺、知ってるもん」
 加治くんは顔を上げたまま、目だけでわたしを見下ろすようにして、ノートを自分のかばんに入れた。
「なんで?」
「付き合ってるから」
 平然と言ってのけ、ポカンとするわたしを一瞥し、彼は口角を上げた。実に完璧な角度だった。
「今日抱くんだ」
「嘘」
「そう、嘘だよ。信じんなよ。立生に怒られるから」
「ノートの中身を知ってるっていうのは?」
 踵を返した加治くんの、大きな背中に問いかける。彼は振り向きもせずに、教室を出る寸前、小さな声で「さあな」とだけ呟いた。

 次の日、西高くんは学校にこなかった。その次の日も、次の日もこなかった。加治くんも同じだった。
 加治くんが学校にきたのは数日後で、同じ日に、西高くんが新聞に載った。ニュースにもなった。西高くんは母親に殺されて死んだらしい。

 わたしはなぜか、加治くんと屋上にいた。加治くんは呼び出しておきながら、なかなか喋り出さずに、どこか遠くを見ていた。握りしめられたフェンスが痛そう。わたしなら悲鳴を上げている。
「髑髏の」
「え?」
 ふいに加治くんが言って、わたしは思わず聞き返した。
「噂、あったじゃん、立生の背中に」
「ああ、刺青?」
「あれ痣だったんだ」
 加治くんが空を見上げて、わたしもつられて上を向く。ひと降りきそうな天気だ。
「俺、知ってたんだ。でも意味なかった。助けてやりたかったけど」
 目線を下ろせば、加治くんの大きな背中がある。西高くんも見ていた光景だろうか。やけに安心して、それが少し悔しかった。
「一回だけ、立生のこと抱いた。淋しいっていうから」
 加治くんが振り向く。真っ直ぐに見つめられて、初めて目が合ったような気がした。
「付き合ってるってのは嘘。あの夜に抱いたのは本当。ノートの中身を知ってるのも嘘だったけど、今は知ってるから、本当」
「何だったの?」
「んー、遺書かな」
「イショ?」
「『骨は海に』って、それだけ。勉強はできるくせに、要領悪くて、不器用で、考えすぎなんだよな」
 加治くんはケタケタと笑った。その後ふと真顔になって、もう一度わたしを見た。けれどもう目は合わなかった。
「三木さんさあ、立生のこと好きだったでしょ」
「うん」
「一緒だな」
「うん」
「平気?」
「ちっとも」
「俺も」
 淋しくて、淋しくて、死んじゃいそうだと加治くんは言った。わたしは黙って、加治くんの真っ黒な髪の毛が、夕方の風になびくのを見ていた。
 くじらの声が聞きたい。



100331


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西高 立生(ニシタカ タチオ)
16歳(高1)

加治(カジ)
17歳(高1)

三木(ミキ)
17歳(高1)



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