アルファ6



 バス停までの道のりを歩きながら、ふと橋の下の川に目をやると、一匹の白い魚がゆらゆらと漂うように泳いでいるのが見えた。思わず足を止めてのぞき込む。鯉だろうか、黒っぽく濁った川底に、白い姿がよく栄えていた。
 わたしがアパートにつくのと同時くらいに、宝くんは訪ねてきた。「今日は早いね」と言ったら、宝くんは照れたように「まあね」と笑った。マフラーをしたまま部屋に上がり込み、宝くんはこたつのスイッチを入れる。「寒い寒い」と歌うように呟きながら、こたつの中に潜り込む。
 こたつで落ち着きかけていた宝くんを引っ張り出して、キッチンで一緒に紅茶をいれて、ふたりでこたつに潜り込んだ。冷えた体がだんだん温められていくのが心地よくて、最近はこの時間が何よりの幸せ。同じように温まってふにゃりと顔をゆるめている宝くんの横顔はまぬけでだらしない。
「女の子ってかわいいよねえ」
 紅茶をすすりながらふいに呟いたら、宝くんも紅茶をすすりながら、目だけを少し大きくしてこちらに向けた。
「なにを急に」
 いや、あのね…としゃべり出す。嬉しくて早く誰かに言いたかったから、自然と頬がゆるんだ。
「仕事先の女の子がね、手作りのクッキーくれたの。バレンタインだからって。もう、かわいくって。男に生まれたらよかったって思っちゃった」
 昼間のことを思い出して更にへらりと笑うと、宝くんはこたつに顎を乗せたまま、無表情みたいな、すねたみたいな顔をした。
「前は、女でよかったって言ってたのに」
「言ったっけ」
「忘れたの?」
「覚えてます。宝くんは戦ったりしなくていいから、長生きしてねって話だ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 紅茶をすする。さすがに少し冷めてきたけど、まだおいしい。ぼんやりと沈黙が続いて、宝くんがテレビのリモコンに手を伸ばした。
「あのね」
「ん?」
「今日、白い鯉を見たんだけど」
「うん」
「きれいで、なんとなく、感動した」
「いいなあ」
 おれも見たかった、と宝くんが言うので、こんど探してみなよと言ったら、一緒に見たいのだと彼は言った。まだ、もこもこのマフラーをしたままだ。そんなに寒いかと少しおかしくなる。笑ったら、宝くんは下唇をかんだ。
「花代さん」
 妙に改まった態度で彼が言うので、わたしも思わず背筋を伸ばして、「はい」と答える。宝くんはごそごそとポケットを探ったあと、両手をぐうにして、こちらへ差し出した。
「どっち?」
 真剣な顔で問うので、わたしもしばらく真剣に悩んだあと、右の手を選んだ。開かれた手のひらにのっていたのは、小さなチョコレイトだった。宝くんは嬉しそうににこっと笑って、もう片方の手をポケットに隠した。
「はい。花代さんはチョコを受け取ったので、一ヶ月後に、おれにお返しをしなくちゃいけません」
「もしかしてバレンタイン?逆だよ」
「だって花代さんからはくれないだろ」
「まあね」
 自分から言ったくせに、ショックを受けたみたいな顔をした宝くんの頭をなでる。くすぐったそうに肩をすくめて、それだけで、すぐに機嫌の直ってしまうところがかわいい。
「ありがとう。いちばん嬉しい」
 素直にお礼を言ったら、宝くんが妙に顔を赤くするので、わたしまで照れくさいような気分になって、紅茶がなくなったのを口実に立ち上がった。ついでに換気のために窓を開けて、窓ぎわの植物に水をやる。部屋を出る直前、宝くんのコップも空かと振り向いたら、こちらを見ていた彼と目が合った。なんとなく、わたしも彼を見つめてみる。彼が目をそらさないので、わたしもそのまま、ずっと見ていた。
「花代さん」
 唐突に宝くんが言う。わたしは「なあに」と答える。わたしを見る宝くんの目はやさしくて、とても落ち着くような、焦るような、不思議な気持ちになる。
「花代さんも女の子だよ」
 再びくすぐったそうに笑って、宝くんは目をそらした。わたしはなぜだか泣きそうになった。



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